いじめって何?~コミュニケーション能力を鍛える~

遅ればせながらあけましておめでとうございます。

今年のお正月はどこも行かずにお家で過ごした、というお宅は多いんではないでしょうか。

うちも例に漏れずでこんなに出かけない正月は何年ぶり?何十年ぶり??

去年の年末年始は、長男はダンナ実家へ次男は私の実家へ奉公に出したので久しぶりに家の中に子どもが不在で、あのね、子どもがいないとね、家の中が散らからないんですよ!

私が片付けた、まんまの姿で部屋の中が何日も変わらないの!

散らかす人がいないんだから当然といえば当然なんだけど、そんな当たり前の物理の法則すらすっ飛ぶほど、子ども2人の破壊力は強烈なわけですよ~

そして、去年ラクをした分だけ、どこいかず子どもフル出場な今年の正月の破壊力は倍率ドン。

それでなくてもヒマさえあれば段ボール工作している兄弟、色々すっかりあきらめたので正月の記憶がすでに消えてますわ私。

何してたんだっけか?

そうそう年賀状と、消しゴムハンコを作ったわw

f:id:umetsubasa:20210115023651j:plain

いやね、長男の冬休みの宿題が消しゴムハンコを作る、で、なんだよその楽しそうな宿題昭和はそんなエンタな要素のある宿題なんか出たことなかったぞと対抗心がフツフツ沸きまして、次男のためという名目で母が創作意欲を消化させていただきましたよと。次男大喜びw

 

入学当初5人で始まった長男のクラスですが、なぜか順調に転校生が増え続け、今やなんと10人になりました!

プロパー数の2倍になるって何気にすごい。

本人たちは、最初は「人数増える!」って喜んでいたものの、だんだん「このくらいでもういいよ」モードに。良い経験をしてますなあw

要するにあの、日本で一般的な教室のサイズでの上限人数は、10人ってことなんだろう。ナチュラルソーシャルディスタンスw

そりゃね、何事もスペースに見合った「人数」というものがあると思うのよね。

うちのザリガニのザリジェット君だって、ハウスに見合った大きさにしか脱皮しない。水槽のサイズアップすると急に脱皮すんのw

椅子が入るだけ箱いっぱいすし詰めにすりゃ効率的かと言ったら、満員電車と一緒でストレスも軋轢も爆上がりするから返って悪くなる。

もうそろそろこんな昭和なやり方は終焉して良いんだろうなあ。

 

というわけで当初は男子ばかり5人だったのに、いまや女の子も4人に増え、なんと長男に彼女ができました。

告白されて、付き合うことになった日、帰ってきて開口一番、

「パパ、告白って何?付き合うって何?」

意味わからず承諾したんかいお前~💢

しかし放課後公園で一緒に遊んだあとはおうちまで送っていき、その時彼女のカバンを持ってあげているそうで、そんなこと1ミリも教えてないのに、なんなら私のカバンだって持ったことないのに、お前のどこの潜在意識に入っているんだそのデータは。

 

狙ってここまで少人数な学校に入れたわけではないのですが、結果的に少人数でよかったな、と思ってます。

最初男の子ばかり5人でスタートした長男のクラスですが、5人の中でしっかり信頼関係を築いた後、少しずつ転校生が増えたので、ひとりひとりとじっくり関係性を築くことができた。

転校してくる子たちは明らかに「カラーの違う子」たちなのですが、一つの価値観で撥ねたり仲間に入れたり、ということではなく、クラス全体でその子そのものをまるっと受け入れるので、転校してきた子もなんというか「浄化」される気がするのですね。

考えてもみて、自分が若干6歳や7歳で誰も知らない人ばかり40人もいる環境に突然入って、「みんなと仲良くしましょう」的なプレッシャーをかけられたら、どうやって集団の中で自分を位置づけ40人とうまくやっていくんでしょう?

大人だってめちゃくちゃ高度な政治力を求められると思いますよ。私無理だったのでこの人生の歩み方だったりするんですがw

そんな難しいところで一日の大半を過ごし親の期待を裏切るまいと子どもなりに一生懸命頑張ってきた子が転校してくると、新しいクラスでどうやって自分を受け入れてもらうか、自分の活路を見出すかと、色んなことをするんですね。わーおばちゃんその気持ちわかるわ~私は一度しか転校してないけどあれすごいプレッシャーだったなあ~転校が多かった人は本当に大変だったんだろうなと想像にかたくない…。

でも、受け入れられようと頑張らなくても、クラス全体にまるっと受け入れてもらえると感じていくと、だんだん落ち着いてくる。

自分は自分のままでいいんだな、と、クラスというパズルのピースのひとつにちゃんとなっていくんですよね。

そんなパズルにずっとハマってこなかった自分にとっては大変羨ましい環境でございますよw

 

でもここに至るまでにはやっぱり彼らなりの紆余曲折を通ってきていて。

それなりにトラブルもあるんですが、ちゃんと超えてお互いの凸凹を認め合っているんですね。

私は長男の友達への向き合い方に感動すら覚えていて。

彼には大好きな同級生がいます。あ、男の子ね。

ある日ちょっとした勘違いによるトラブルがあり、先生に呼び出されてこっぴどく怒られてしまいました。

「ボクは話が大きくなるのが嫌なんだ」

と、子どもの関係に大人が出てくるのを最も嫌う息子は「もう〇〇君とは深く付き合うのはやめる」宣言をしました。

と思ったら翌日夕飯を食べながら、

「やっぱり僕は〇〇君が大好きだから、もっと深くつながりたいんだ」と、いや私だってこれだけ生きてきて人生で一度も発したことないというかっこいいセリフを吐きやがり。

次に別案件で問題が起きたとき、「大人に言わないで僕たちで解決しようよ、そうすると成長するよ」とのたまったらしい。

〇〇君も長男のことが大好きで、いつも長男のことを気にかけてくれているイケメン野郎なので、その言葉もちゃんと心で受け取り、それからは何かがあってもまずお互いで解決策を話し合うようになったそうです。

ええ話やあ~と親バカ全開ですみません。

でもね、こんなコミュニケーションが取れたら、そもそもイジメってなに?って話になりません?

 

市の教育委員会からこんなアンケートが配られたことがあります。

f:id:umetsubasa:20210115023741j:plain

 長男の夏休み宿題なんですよこれ。

普段プリントものはほどんど目を通さない放置親ですが、「保護者から一言」書く欄があるから見ざるを得ず。

もうね、長男が書いた答えが明らかに

「こう書いておきゃ文句言われずに通るだろ」

文なわけ。

教えられたとおりの聞こえの良い美辞麗句並べてるだけだから、文法がめちゃくちゃ。

こんなもん先生はダマせても親はダマせません。

 

「言いたいことはわかるんだけど話がつながってないからさ、もう一回自分の頭で考えて書きなよ。本当にこう思っているんでしょ?」

「…うん」

「別に内容変えろって言ってるわけじゃないんだって、話が通じるように書き直せばって話よ」

「…うん」

消しゴムで消しても、鉛筆進まず。

「だってさ、これ、何回読んでもなんて書いてあるのかわからないんだよ!『どうすれば誰かに話ができるだろう』ってどういうことなんだよ!?」

おお、君、よくそこに気づいた。さすがだね。

「どうすれば、誰かがいじめられていることを誰かに話せるの?」

「…勇気を持つこと?(←模範回答)」

「じゃあそう書けば?」

「…うん」

「誰が?誰が勇気を持つの?」

「……、僕?」

「そう思うんならそう書きなさい」

というわけでこの、取って付けたような回答になったんですがw

 

そう、わざとなのかそうでないのかこのリーフレットは、「誰が」という主語が、わりとあやふやなんですよ。

長男は幼稚園で、トラブルが発生した時大人を頼らず自分たちで解決することを訓練しているので、『どうすれば誰かに話ができるだろう』などというこの主語のないお題の意味が、本気で何を言っているかわからないんですね。

「いじめを見たときは大人に言え」とは、先生たちが命がなくなるような事態を真剣に避けようとしてくださっているのはとてもわかるのですが、あまり根本的解決にはならないように感じます。

私子どもの頃いじめられっ子最前線だったからわかるけど、大人に言うと問題って地下に潜っちゃってこじらせちゃうんだよね。

いわゆる「チクる」ってやつ。

「自分の言い分を聞いてくれない」は、いじめっ子もいじめられっ子も思ってるわけですから、一方の見方だけで悪者にされるんであれば、当然承服できず矛先はさらに鋭くいじめられっ子に刺さっていきます。

いじめをゆるさない、がすなわち大人に報告しなさい、では、どちらも解決策を自分の頭で考えることをやめてしまいます。

子どもの社会は大人の社会の縮図であるならば、いじめ問題が発生したのなら、大人も、大人自らが自分と向き合うきっかけになります。

この場合の本当の主語である「誰が」は、大人である私たち。

つまりリライトすれば、

「大人がどうすれば、子どもは誰かに話ができるだろう」

ですね。ほら、すっきり入るでしょう?w

 

というわけで、文句ババアから一言。

「『私は私のままでいい』『あなたはあなたのままでいい』ということを全ての人が受け入れられれば、いじめはなくなりますね。自分を信用し、仲間を信用し、勇気を持つ。自分や人のありのままを認め合える、そういう社会や教育であってほしいと願います。」

 

自分の属する集団を信用して、ありのままをさらけだせるかどうか。

クラスという集団を信用できている長男のクラスでは、だからありのままを受け入れ合うことができる。

つまり、傷ついた仲間を癒せるのは、仲間だけなんですよね。

親や先生じゃない。

これが「大人を頼らない」という本当の意味なんだと思うんです。

次男の幼稚園もそこをわかっているので、徹底して訓練しています。

お受験でも早期教育でもなく、これが幼少期という一番大事な時に一番訓練すべきことだし、幼少期にやれておけばあとは勝手に自走してくれると、10歳まで育ってこうやって芽吹いてきた長男を見ると思うのですよ。

 

認め合うということは、固定の「こうあらねばならない」という価値観が薄いということ。

柔軟性があり、そこに競争意識は全くない。

対して先生という世代には、まだまだ「ねばならない」が強い。

しかし次世代の子どもたちにそんな競争は必要ないので私はむしろこのまま好きなことをして過ごしてほしいと思ってます。テストも通知表もいらねえ~

 

良く言われることですが、自分の真ん中と繋がっていれば、ブレることがありません。

自分の真ん中と繋がるということは、自分の好きなことを好きなだけする、ということです。

長男は放課後になるとうちの仕事場と隣の公園で、毎日真っ暗になるまで同級生と遊びます。(そのあと彼女を家まで送っていくんだけどさ、彼女のカバン持って←まだ言ってるw)

このくらいの年齢になるとイマドキはお習い事や塾で遊ぶ友達が減っていくそうですが、この子らはむしろ友達と遊びたいのでお習い事を減らすというw

友達とアホほど遊び、バターになるまで鬼ごっこをする、今この人たちに本当に必要なのはこういうことなんだなあと感じます。

将来へのアレコレは大人が勝手に後付けしたものに過ぎなくて。

人生は過去でも未来でもなく、今という瞬間の積み重ねだということを思い出させてくれます。

アホだからね、うちの仕事場でかくれんぼしてゴミ箱からガキが出てくるとか、宿題を公園の砂の上でやって真っ黒にしてるとか、ほんとこいつらアホですけどね?

 

春になったら、釣りが大好きな子どもらのピアノの先生に、船釣りに連れて行ってもらう約束をしています。

今までは次男がまだ小さかったので親同伴必須、しかしダンナも私も乗り物酔いが半端なく(私なんて電車ですら酔う)、船なんてとんでもないと敬遠してたんですが、大きくなったので子どもだけ連れてってくれるという有り難いお言葉♡

私のお友達のお子さんはずっと魚つりばかりしていて、大学はお魚研究室にいるそうです。さかなクン的なw

本当にしたいことをしているその先に、本当にしたいことをする人生が見えてくる。

別にうちの子たちにさかなクンになれとは言わないですが、そうやって人間は自然の一部であることを実感しながら日々を楽しんでいれば、おのずとやりたいことが見えてくるのでしょう。

そうやって仲間と繋がり自らを自然の一部であるということを忘れず心と体で対話をしていれば、狭い世界で小さなことで諍いが起こっても、自らの命を危うくすることもないと、思うんですよ。

 

 

自分と一致すること

おはこんばんちはです。コロナ風邪騒動の中、お元気でお過ごしでしょうか。

先日わたくし、生まれて初めてディズニーのチケットをネットで取ろうとトライしましたが、どんだけ張り付いてもアクセスすらかなわずあまりに歯が立たなくて世間の分厚さを体で実感しました。みんな根性すごいわ…私なんて足元にも及ばん。いくらババ孫コンビのためとはいえ、これ以上はムダにスマホ老眼を加速させるだけなので断念しました(´;ω;`)

行楽地にはいつもふらっと出かける我が家。

家出て現地着くのが夕方とかwなのでディズニーもアフターなんちゃら専門。

ところがこのコロナ騒動で色んな施設が軒並み予約制になっていることを全く学習せず毎度子どもらを泣かせているので、たまには予定のある行動をしようと心を入れ替えたら、コレ。

近くのプラネタリウムも予約制なの知らずに行ってたまたま空いていたので入れましたが、「3席空けて座ってください」と言われ、「ええ?四六時中顔を舐めまわしているような自分の子どもと、プラネタリウムに限って離れて座れと?!」と周りを見たらカップルも離れて座ってて、いちゃいちゃしにきたのにあら残念と思ってしまいましたとさw

 

そんなご時世の中ではありますが、次男幼稚園が無事に運動会を開催してくれました♡

f:id:umetsubasa:20201030201127j:plain
「密にならないよう」と綱引き競技が玉入れに変更になってましたけど、玉入れこそ我を忘れて密にならないかね?綱引きの方が少なくとも秩序が乱れることはないよね?と小一時間。まあそんなことはどうでもいいんですが。

もうね、特にうちの園では年長の運動会は3年間の集大成のひとつであり、醍醐味であります♡

子ども自身もそうですが、親も、わけもわからず自分の子の「出来る出来ない」だけ観覧していた年少時代とは違って、幼児教育とは何かがなんとなくわかってくるこの年長時期の運動会は、我が子のみならずクラスの子たちの成長ぶりに自分の子でもないのにみんなが涙するのですよ。

うちの園では、保護者に、数日前に行われる運動会の予行を観覧することを推奨してます。予行から本番のたった数日間に、子どもが大きく成長するからです。その数日で子どもたちの本気とか覚悟が決まるんだよね。

 

しばしば、次男のマイペースっぷりをここで吐露させてもらってますがw

わかりやすい長男と違ってマイペースな次男自身、はてどこまで運動会を楽しめるのか、若干(というかかなり)不安ではありました。

 

種目は、

・とびばこ

・荒馬

・リレー

の3つ。

 

の前に。

私には「開会式」という大きな関心ごとがあるw

開会式の準備体操として「できるかな体操」というのを全学年でやるんだけど、予行の時ひとり後ろを向いてふざけたりしてほとんどやらない人発見…うちの次男様だw

担任の先生いわく、「ゆーり君はこういうのがバカバカしくてやってられないんだよ」だそうで、そんな話を運動会直前の懇談会でシェアしたら、開会式のできるかな体操の時だけピンポイントに次男の注目度が上がってしまうというww

お前な~世の中というのはな~恥ずかしいからってやらないと返って目立つんだよ~~

おかあさんといっしょ」をちゃんと観せておけばよかったと今さら後悔…だって「だんごむし」って歌えばほぼ日本中の幼児が一斉に転がるじゃんw

でもシェアしたおかげで「私ゆーり君のそういう気持ちわかる~」「うちの子も実はそうだと思う、やってはいるけど」という本音の声も聞けたのでした。

まあね、母親の歩く道がずいぶんとナナメですから、子どもにまっすぐ歩けという方がおこがましいわな。

 

荒馬とは、青森の伝統芸能で、収穫の時働いてくれた馬に感謝する踊りだそうで、うちの園の伝統行事です。

毎年運動会で年長さんが披露し、終わると使った荒馬を年中さんに引き継ぐ儀式があります。

ほとんどの園児が年長の馬に憧れを持つ中、荒馬なんぞ全く箸にも棒にも掛けなかった次男様でしたが、今年はどういうわけか「今までの中で一番楽しい!」とのたまい、「荒馬やるよ~」の掛け声に誰よりも早く集まるハマりっぷり。

演技にも真剣で、「ゆうりターン」と呼ばれるほどかっこよく回ることにこだわっておりましたw意外にナルシストだったかww

 

どうしても目に見える成果が欲しい親としては、「出来ない」「やらない」と主張する我が子を持つとやきもきする場面ですが。

出来ない・やらない、を受け入れられて初めて、自分から出来る・自分からやる、気が起きるようになる。

年中の1年を通して「やらない」を貫かれ、結構悩んだ1年でしたが、そこで彼の「やらない」を尊重しみんなに認めてもらえたからこそ、年長の今ここで花開いたように思います。

やらない子の親はモヤモヤするけど、いずれやろうとする力を信じることが大事。

園からも「いずれやろうとする力を信じて」もらったからこそ、彼は今年の運動会は自発的に楽しめた。できるかな体操も強制されたりやらないことで問題視されなったのは本当に有り難いw←園によっては、だよね?こういうの~

一説によると、2012年以降に生まれた子どもには、クリスタルチルドレンと呼ばれる子どもがたくさんいるのだそうです。

詳しくはググるとでてきますけど、周囲に迎合しないというか今までの価値観とは合わないというか、そういう特徴の子どもたちなんだそうです。

多分うちの次男様それw徹底して忖度がないww

そういう子どもが従来の箱に収まるかというと、微妙だなあ。と今さら小学校が悩ましい…

 

自分に集中しているときの次男は素晴らしいんです。走っているときでも荒馬でも、体にピーンと一本柱が通ってるみたいにキリッとしている。

f:id:umetsubasa:20201030195515j:plain

先日、現役大学生に魚獲りを教えてもらいに川へ行ったのですが(こういうの私はあまり教えられないから、魚獲りで家庭教師を雇ってみたw)、ゆーりの腰の入り方が素晴らしいと大絶賛され。

f:id:umetsubasa:20201030195610j:plain


普段はくにゃくにゃなんですよこの人。私と買い物しているときとかご飯食べてる時とかめっちゃ気が抜けてて、しばしば怒られる。

普段は気が抜けているくせに、自分に集中しているときの彼は非常に姿勢が良い。

お 前 は 羽 生 結 弦 か っ て の 。

 

人間、自分に集中しているときって、雑念がないんですよね。こういうのを神がかっているというのかな。今風に言うと「神ってる」w←長男がどこから聞いてきたのか時々使うww

自分の中の「神」と繋がっている状態なんだろうね。

そういう時人は、体がまっすぐになる。体が歪まず、自分の体の正面で作業をしている。

周りの目や評価を気にしたり、「やらねばならない」概念で動くと、体が歪む。

最近中医学を学びながらも量子をちょこっと学び始めているのですが、余計な概念や感情など波動の低い部分を体から消していくと、この体の歪みがどんどんなくなっていくんですよ。

歪みがなくなっていくと、自分の中の神がでてきて、そこと繋がっていける。

子どもはそもそも繋がっているものだけど、この世で色々な体験をしているうちに、知らず知らずに体に闇が溜まって歪んでいってしまうんですね。
だから大人になると大抵の人は「ねばならない」にがんじがらめで身体が歪みまくっていて、様々な不調の原因になったりする。

自発的でなく、大人が課題を「やらせる」というのは、この「体を歪ませる」行為にあたると思うのです。

お母さんが望むから、先生が評価するから、周りの人がやるから、やる、これは全部「外側からの動機付け」ですよね。

人間というのは、やらされることはたとえどんな小さなことでも抑圧や強迫観念になってしまう生き物。

勉強やお片付けも、「勉強しないと〇〇になっちゃうよ」とか「片付けないとおもちゃ捨てるよ」とかいうよくある強迫的な「しつけ」は、全く解決にはならないどころか子どもを歪ませてしまうそうです。

部屋中を荒らされる男子の親としては発狂に堪えないことではありますがっ。

わかってはいても、本棚の本全部出して秘密基地作られたりするとね、とっさに模範回答とか無理ですから💢すみませんね未熟な親でさっっ

f:id:umetsubasa:20201030200841j:plain

この笑顔……

 

だから子どもには、できるだけ「やりたいことをやらせる」。

やりたいこと=自分の中の神とつながる、ということ。

やりたいことをやっている子どもは自分の中の神と繋がっているので、自分に集中している。

子育てのコツというのは、やりたいことをやらせる工夫が必要、に集約されるのかな。

そこを大事にしてくれる家庭教育であり幼児教育であり学校教育であるかどうか。

大人の都合をはみ出たとき「発達障害」と切り捨てたりしないかどうか。

ただし、じゃあやりたいことがテレビやゲームだからってそこを手放していいかというと、アレは人が「本当にやりたいこと」から切り離す意図のあるアイテムだと思うんです。

つまり人を自分軸で喜びや楽しいことで人生を歩かせることを阻んで、闇に結びつけるためのもの。

他者に人生を支配されちゃうんだよね。自分の車のハンドルを自分で握れなくなっちゃう。

友達のダンナさんが毎晩結構な量の酒を飲んで、具合悪いって昼過ぎまで寝ていたのが、最近酒を減らしたら体も調子よく、酒を買うために散財していたお金も浮いて趣味の熱帯魚グッズを嬉しそうに買ってくるようになったって、人生の主権を自分に取り戻したんだなあ、良かったねって素直に思いました。

アイテムがお酒に限らずこういうことってたくさんあるんだろうなあ。

 

「生きている以上何者かにならなくてはならない」

というのが、現代の貨幣経済を生きる私たちの、最大の強迫観念。

現代の社会も教育もすべてここから始まっていると言っても過言ではないでしょうが、それが本当に生きたい生き方なのかしら?

人生をお金に紐づけすることが、すべて悲劇のはじまりなような気がする。

好きなことを仕事にするっていうのは、自分の神性をお金に換算するということで、人によっては逆に抑圧にもなったり。

大人の目から見て「良くできた子ども」というのは、つまり、「その時の社会の価値観にばっちり合った子ども」という意味で、歴史を振り返ればそんな価値観ほど流動的なものはありません。

その時の価値観だけに無理せず合う子どもって本当に一握りで、問題がないと思われているような子どもの大半は、外側の評価を取り繕うためにがんばってしまう。

何年か後に価値観が変わっていったときには、本当の自分に還れずに疲弊するでしょう。

いずれ世界はお金の要らない世界に移行していくと確信していますが、お金のためでない本当の生き方を問われたとき、我々の子どもたちが「自分と繋がっている生き方ができているかどうか」は、今私たちが自分と繋がった生き方をしているかどうか、に集約され、明暗をわけていくんじゃないかなと感じます。

大人の、なんとかしてあげたい、なんとかせねば、という心配する気持ちはわかるし有り難いけど、子どもをそもそも信じて待ってほしい、と長男の担任の先生にこっそり思う今日この頃…w

 

なんてマニアックなことを考えながら観覧していた運動会でしたと。

なにが素晴らしいって、子どもたちは勝ち負けでなく、仲間と支え合い、個の違いを認め合いながら成長しているのがホントに良くわかるのですよ。

年長になると、「帰りの時間です」とマイクで放送するという権限が回ってくるのですが、ずっとマイクを前に話せなかった次男が、つい最近ちゃんと喋られるようになって、その時同じクラスの男の子がお迎えに来た私を見つけるなり走ってきて食い気味に「ゆーりがピンポンパンポンちゃんとしゃべれた!!」と自分のことのように報告してきてくれまして。

この子は一般的には療育に通うタイプの子なのですが、いつもまっすぐ友達と向き合って、良いことも悪いこともストレートにぶつけてくる、純粋な魂の男の子なのです。

何が良くてなにが悪いかなんて本当に、ない。

子どもたちには光そのままの魂で成長してほしいな、と願います。

 

そして汚れた大人である私wは、自分に集中する時間を作って浄化するべく、一円もカネにならない趣味を作ろうと思いましたww

せっかく生まれてきたんだし。子どものように人生を楽しもう~~

 

 

 

 

うちの次男が素晴らしいと思う件その3

先月、長男がめでたく10歳になりました。

10年!

ひり出して10年ってか!早いようなそうでもないような~

 

f:id:umetsubasa:20200725034115j:plain

この数字ケーキは彼が1歳の誕生日から毎年続けて作っております。

今年から2ケタということでどないしようと頭抱えておりましたが、スフレパンケーキのレシピを友達に教えてもらい、この生地を1と0の型を作って流し込めば2ケタも楽勝!と言うは易し、そんなに簡単にできていれば今頃ククパにそんなレシピがあふれているはずでw

味は美味しくて大好評!本当は3倍高さがあったはずとかわざわざ言わなきゃわかりゃしないさ。

しかしこれいつまで作るのかしら私ったら。「15」とかでギブアップかなあ?

 

コロコロコロコロ騒がしいご時世、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

やれマスクをするだのしないだの、世界保健機構とかいう団体すらコロコロ態度を変えてますからね、我々下々のものが安定した対応できるわけはないですな。

学校も幼稚園も始まりましたが、学校の方の行事関係はもれなくストップ。

次男の通う幼稚園は、「行事は子どもを育てる大きなタイミング」と捉えているのでなんとかどうにかどうしてもやりたくて園長必死w

プールも入る。プールバッグを持って登園する次男を恨めしそうに見つめる長男。ほんと子どもって水が好きだよなあ~。←ちゃんとウエットスーツを着せてます♡ハイシーズンならともかく梅雨時の入水はチビにはきつい。

 

例年ならこの時期の年長さんはとっくに合宿へ行っている。

うちの園の合宿は「おとまり保育」なんてふわっとしたもんじゃなく、5歳児が2泊3日で御岳山という山へ登って山小屋に泊まるという、ガチな合宿。

今まで母と離れて寝たことすらないという園児も多く、おねしょの問題やら体力の問題やら親と離れた不安と寂しさやら集団とのかかわりやら全てを乗り越えるために母も子も向き合い、先生たちもひとりひとりの能力と超えるところをカスタマイズし子に「合宿行って楽しかった!」という思い出を生涯に刻むことに総勢でコミットするという、多分ちょっと普通では想像できないナナメ上な年中行事。

どのくらいカスタマイズするかというと、子どもによっては「この子に2泊は無理です」宣言を下され独自メニューを提案されるとか、一人でお風呂に入れない子には家族が近くの山小屋で待機してお風呂だけ家族と入ってまた合宿に戻るとか、前後の懇談会は暑苦しいくらい子育ての悩みをぶちまける涙涙の吐露合戦になったりなんかもうそりゃ私もこの園は初めてで初体験なので、何がどうでどの辺をどうすればよいのかも全くわからないですw

特にうちの子は、生活全般身の回りはとっくに自立してますしね、お泊りもなんなら3歳くらいの頃からばあばの家へしょっちゅうピンで泊まりに行っていますし、どの辺をどう心配してどういう力をつけさせることにコミットすればよいのか、みんなの涙の中でわりと宙に浮くっていう…←共感力の欠乏w

そんな園生活きっての一大イベントが、今年はできるかどうかの危機にあり。

今のところ2学期に日帰りで、の予定ではありますが、それもどうなるかわからないので、「合宿に行かなくてもつけさせたい力をつければよい」というますます私が困る展開になりつつあります( ノД`)

 

年長になると、グループ活動に「リーダー決め」という課題が入ってきます。

わけもわからず最初は結構な数の園児がリーダーに立候補するんですが、リーダーとは何をするのか?そもそもリーダーとは何ぞやと聞くと、「…背の高い人?」とか「走るの速い人?」とかなかなかほほえましい回答が返ってくるw

仲間で話し合っていくうちに、なんで自分がリーダーにふさわしいと思うのか、なんでこの人にリーダーをやってもらおうと思うのか、というディスカッションと通して子どもたちはコミュニケーション能力を磨いていきます。

何度か触れてますが、アクションがデーハーな母親(=私w)とは真逆なうちの次男様は、宇宙レベルにマイペースで地味な人。

わちゃっとした雰囲気も好きではないので、お部屋の片隅に専用のイス机を置いてもらい、そこで好きな迷路や折り紙なんかをしながらみんなの話し合いに耳だけダンボで参加しているそうです。

リーダー決め話し合いがあった時はもう、最初から全拒否で、話し合いにも参加したくない、リーダーはやりたくない、誰がリーダーになっても文句は言わない、と取り付く島もない。

「なんで嫌なの?」と聞いても、「どっちでもいい」とか意味不明な回答しか得られず、母は表面は平静を装っても脳内で息子の胸ぐらつかんで奥歯ガタガタの刑に処す。

しかし、幼稚園のおまつりに出店するおもちゃを作るリーダーを決めるときはなんと、「作るの好きだからリーダーになりたい」と立候補し、「ゆーりくんは作るの上手だからリーダーがいい」と周りも推してくれて、リーダーになったそうです。

いやあこの人は幼稚園にいる間はやらんだろうなあ、と思っていたので意外な急展開。

担任の先生に「私なんか変な圧かけましたかね?」となきついてみたら、「ゆーりくんは誰かに言われて動くような子じゃないですから」と明答されるw

そう、本当にやりたくないことはやらないし、興味がないことは本当に動かない。でもそれが興味があることであれば、やる。全くもって心配のしがいがないのですw

体調の上がり下がりも感情の起伏もほとんどなく、今の現状を等身大で、ただ自分に正直に生きている。

「幼稚園で好きなお友達は?」と聞いても、

「わからない」

「苦手な友達は?」

「わからない」

…………

「そうか!やっとわかった!好きとか嫌いとか、ないんだね君は?!」

「そうだよ、そうなんだよ!」

樹 木 み た い な や つ だ な お ま え 。

来るもの拒まず去る者追わず、なんでこれほどこの人はたたずんでいられるのだろうか。

 

自信とは、自己肯定感とは何ぞや。低い日本人にはわりと課題な人が多い。もちろんそこを上げることも園の活動の大きな狙いのひとつです。

コロナで延びたけど、年長イッパツ目の大事な行事に、「こいのぼり作り」というものがあります。

大きなこいのぼりをクラスの園児で共同制作するのですが、そこはまだ5歳児同士なので簡単にはいかず、ああしたいこうしたい誰々はああいったこうやったなど様々なドラマを生み出しながらひとつのこいのぼりを作り上げていく。

これも制作を通して園児同士の関係性を築く狙いがあるのですが、もう一つ重要なことは、「作るのは『みんなの』こいのぼりである」ということと、「みんなのこいのぼりを作るには年少年中で自分のこいのぼりを作れていることが必要である」ということ。

自分のものを集中して作った経験があるから、全体のものを作ることができる。

みんなのものなんだけど自分のものでもある、という気持ちが大事なんだそうです。

そうやって自分の属する集団を信用し、本音を言い合う練習をしながら自分のありのままをさらけ出し安心できる仲間集団の中で、上下関係ではない対等な関係を築いていく。

みんなで作るこいのぼりの中の、自分で描いて自分で塗った色に自信を持つためには、その前に自分の作りたいこいのぼりををとことん作っておく必要があるのです。

ワンネス、ですよね。勝ち負けじゃない、お互いに認め合い調和のとれた世界を築く。

ワンネスとは、アリの集合意識みたいなもので、ひとつひとつの個体が意識を持ちながらも全体で大きな何かを成し遂げていくことです。

めっちゃマウンティングする俺様なアリばっかりだったら、その集団は到底巣には帰れませんw

人と比べて勝ったの負けたの、人を否定したり自分を否定したりして競争していくことは、いずれ疲弊して心か体がポッキリ折れてしまいます。

自分を信用し、他者を信用し、自分の属する集団を信用して安心できるからこそ、大きな何かを成し遂げることができる。これが争いのない平和な世界を創るカギですよね。

なんかこう、偏差値教育の競争世代には耳が痛い話じゃありません?w

お友達の息子さんが魚とりが上手で、大学生の今でも週3以上水に潜ってひたすら魚とりをしながら、自分の人生でやりたいことは何か、模索しているそうです。

とうとう見つかったらしいですが、したいことをとことんやった彼は自信にあふれ、教えてもいないのに宇宙の真理を語り始めた。悟りってやつだそれ。

こんな風に生涯自分のやりたいことととことん向き合えるって、素晴らしいことじゃないですか。

子の将来を心配し「ああしなければこうなる、こうしておかないとああなってしまう」と抑圧するのでなく、ただしたいことを徹底してやることを見守るだけの親であれば、どんなに子どもの人生は楽しく光り輝くのでしょう。

自分が自信にあふれれば、当然他者をも認めることができ、マウンティングの必要もない。

こんな人がたくさん増えれば、地球に大きくてステキなこいのぼりが創られますね。

 

長男の幼稚園も、規模や形態は違えどマインドは似た感じのところでした。

毎日いろんな公園で遊ぶだけの幼稚園で、知育もお遊戯も何もなく、ただ徹底して遊んだ3年間でした。

その長男が10歳になって今どうかというと、彼も自分や他者を否定しません。私の子なのにw

彼はたまたま勉強が好きな子なので、学校は全部楽しいし、宿題もいつの間にか勝手に終わらせているので母はますます母の仕事が楽でありがたいです。

別にたまたま好きなだけなので、これが学校の勉強が嫌いでやらなくても、代わりに好きなことができれいればいいと、私は思います。次に控えている次男がどう転ぶかもわかんないしさ。

そして特筆すべきは、そういう肯定感は、クラスをも全部上げてしまうのです。

人数は少なくても問題がないわけではないクラスですが、いじめのようなことは一切発生しません。クラスメイトが学校へ行きたくないと保健室登校になっていても、みんなで付かず離れず待っててくれる。お互いにまるっと認め合っているんですね。

さらに歴代の担任の先生は全て「アタリ」を引いてくる。

波動が高いというか、良いクラスなんですよ本当に。ありがたや~~

 

自己肯定感というのは、身体が不快でも下がったりします。心身は一体ですからね。

おっぱいやミルクでできるだけ育て少なくとも1歳半までは離乳食を与えず子どもの体に徹底して不快を与えない、と言うのが私がやっている西原式育児でありますが。

やはり、「立ち返るところがある」というのは、逆境に強いよなあと感じます。

先日、子どもらと「おっぱい談義」になりまして、おっぱいはどんな味だったか?に、元おっぱい星人の長男は、とにかくとにかく美味しかった、と。ミルクは甘いしおっぱいも甘いけど、おっぱいはちょうどよい甘さというか、とにかく美味しかった、とアツく語られました。さてはおぬしまだ未練があるな?w

でもね、10歳になってもここまでおっぱいの味を詳細に表現できるって、幸せなことじゃないですか?

もう10歳になって色んな、こんなイチゴだらけのスフレケーキとか世間的に「美味しい」と言われるものを食べてきていても(野菜以外…)、今までで一番美味しかったのはおっぱいだったと、これ40のおっさんになっても覚えていたらすごいことじゃありません?

そんなおっさんになってもおっぱいの幸福感を持っていられるって、大きなギフトだと思うんです。だいたいおっぱいが足りないから不足感に苛まれるわけだから。

これからの人生、色んな荒波も襲ってくるでしょうけども、潜在意識でそんな満ち足りた幸せ感があってさらに記憶に残っているとしたら、人生に絶望することなく乗り越えていけそう。

それでただ楽しいことだけをやれる人生だったら、最高ですよね。

この星に生まれてきた目的を全うできそうな気がします。

 

好きや嫌いすらない、樹木な次男はさらにその上を行きそうですがw

徹底してやりたいことしかやらないこの人がどう頭角を現してくるか見当もつきませんが、ただ信じて見守れる親でありたいと、今は決意できる…かな?(´Д`)

とりま合宿でつけさせたい力を考えねば~

次男に関しては、「その人が信じるに足る人物かどうか観察する癖がある」と言われたことがあります。

時間がかかっても、この世はステキなことで満ち溢れていて、ありのままでただ楽しいことをやるだけの信頼できるところであることがわかれば、飛び跳ねる樹木になれるんだろうな。

それも最強じゃん(゚д゚)

 

 

☆むしろ台所×そえる堂謹製・有料育児オンラインサロン「アンテナ」
 入会随時募集してます。
 育児の悩みをみんなで共有、解決していくサロンです。西原式育児に限りません。
 興味ある方はメッセージください♡

 

☆おしげさんは現在・足ツボ屋さんですw

東京八王子の足つぼ・経筋施術サロン

 

 

 

うちの次男が素晴らしいと思う件その2

コロ休もそろそろ終盤に入ってきている昨今、いかがお過ごしでしょうか。

我が家はおかげさまでとても元気に過ごしております。

例に漏れず毛穴からケツの穴まで緩みまくっておりまして、今月から色々始まる?毎日弁当作るとかいやもうそれ現実?くらいに伸びきっております。

子どもたちも当社比2倍くらいの緩みようですが、考えてみれば時間に追われない生活って、なんて贅沢なんでしょうね。縄文だわ縄文だわ。コロちゃんサマサマ!

そんな中、今年小学4年生になられた長男が、5月中頃からてんこ盛り宿題を出されるようになり。

家庭自習なのに1時限目、2時限目ときっちりプログラムが組まれております。

「会ってなくてもみんなと繋がっているんだよ」

と、誰にも言われてないのにちゃんと8時半から自習を始め、時間になればちゃんと中休みも取って、けなげにやっております。

この人のこういうところ我が家の誰にも似てないのよね。監視の目がなければどこまでもだらける私は、思わず「アンタ真面目だね」と言ってしまうという、母親失格。

宿題の中身もほとんど見たためしがないので、彼が何をしているかすら知りませんw

登校日に戻されたプリントに珍しく目を通したら、

 

f:id:umetsubasa:20200601055524j:plain

小学4年生アホ真っ盛り。なにをやっておるのかね君は。

 

というコロど真ん中で、次男が6歳におなりあそばしました。

 

f:id:umetsubasa:20200601055550j:plain

(後ろにあるのは巨大な流しそうめん機w「何が食べたい?」で主役からのリクエストがコレ…)

米粉シフォンケーキの真ん中にクリーム突っ込むだけという、テキトーなケーキですみません。このまま長男カンフーLINEでオンライン呑み会のため飾りつけタイムがジリ貧で大変テンパってたんです~

そういや今年初めてこの人に生クリーム解禁したかも。すっげえうまそうに平らげておりましたwこの人食べ物の見た目関係ないので、だからこっちの盛り付けが雑になるのよね←言い訳

米粉シリーズを会得しておいたおかげでどれほどこのコロ休が救われたか…みるきさんありがとう!その中でもふわふわ米粉食パンは神です神!こんなに材料ヘルシーなのにヤマザキに余裕で勝ってる!

 

そしてね。

このコロ休の真っ最中に、順番が回って来たんです。

なんの順番か、っていうと。

 

次男の幼稚園は、それぞれの個に応じた保育にとても積極的です。

「みんな違ってみんないい」

それぞれの個性に合った保育って、言うのは簡単ですが、なかなか実践するのは難しい。

どうしても似たような箱に入れて、出資者である親に対しこれだけできるようにしましたよ、で子どもを「評価」しがちです。

評価も、それぞれの個性に合わせた評価ならまだ良いのですが、「こういう子が好ましい子」「こういう子が良くできた子」というのは、大人の思い込みであったり社会的通念であったり世間体だったり、という基準で設定されがちです。

そうすると、一般的な大人の思い込み基準に合った子、例えば誰にでも挨拶できるとか、文字を早く覚えるとか、運動会でプラカード持って先頭歩けるとか、たまたまそういう個性を持った子は高い評価をうけても、そうでない個性の子は「なぜそうなのか」の話を聞かれることもなくバツをされがちだったりします。

よくよく見てみると、「大人にとって好ましい個性の子」というのは実は本当にわずかであり、好ましく思える子も大部分は「好ましく見える自分を演技している」場合がとても多い。

本当の意見を言わず、お母さんや先生が期待する自分を演じる。若干4,5歳の子がそれをやるというのは、けなげな反面「どうせわかってもらえない」という固い仮面を一生かぶって生きていく可能性もなきにしもあらず、それほどまでに幼児教育は人生にとって重要な部分を占めると、私は思います。

そんな教育の中に突っ込むくらいなら、いっそどこにも属させずに縄文に戻したいとすら思ってしまう。まあ、私自身の色々なトラウマがねw

 

発達のテスト、というものが存在します。

「欧米か!」じゃないですけど←古、日本でない先進諸国では、この発達のテストをもう、2歳くらいの頃から受けるのが普通な国が多いのだそうです。

これは本来、知能の発達が遅いか早いかを見るものではなくて、誰にでもある子どもの「でこぼこ」、つまり「個性」を周りの大人が把握しておきましょう、という目的のもとに行われるものです。

例えば、集団で行動がのんびりな子がいるとすると、指導する側から見れば輪から外れるのは「大人にとって都合の悪い個性」であり、なぜのんびりしているのかというところにフォーカスせず、ともすると「この子は他の子と比べて発達が遅れている」と勝手に判断してしまうこともあります。

でもこの子どもがなぜのんびりなのかというのは発達が遅れているという理由とは限らず、例えば慎重な性格だったり、人の雑多なエネルギーが見える子だったり、周りのたくさんのことに気づく子だったり、と、色んなポジティブな理由があります。

「どんな子であるか」を見える化することによって、集団の指導者がひとりひとりの個性に寄り添う指針を共有することができ、結果的に大人の思い込みによる個の埋没を防ごう、というものです。

 

でもこれね、日本では、

発達「障害」

という言葉にしてしまうのよね。

個性も障害も一緒くた。陰謀か?w

こういうテスト(田中ビネーといいます)はたいてい、療育と呼ばれる機関で行われており、もしや我が子が「障害」と診断されてしまうのではないか、そこに抵抗を感じない、その可能性にハードルを感じない親はいないはず。

しかも医師の診断書がなければ、幼稚園で加配サポートを受ける行政の支援は受けられないのです。(加配を受けるのに発達障害という診断名が必要、というわけではない)

ひとりひとりの子どもの個性を大切にするためにもうちの園はこのテストはみんなが受けてほしいと願ってますが、イメージ的に親がそもそも受け入れられないので当然ナーバスな問題であり(伝え方によってはトラブルになる)、見方によってはせっかくこの園にいるのにもったいないな、というケースも出てくるようです。

しかし園では積極的に、外部から講師を呼んだり講習会を定期的に開いたりしているので他の園よりは目覚めている親は多く(大学のゼミ室とつながっている)、意を決してテストを受けたいと該当機関に電話をすると「またおたくの園ですか」と言われる始末ですわw

 

そりゃ私だって最初はめっちゃ抵抗ありましたよ。

うちで見ている限りの次男は全く普通だし、むしろアップダウンのとても少ない「凪」な子で、この子が大人で周りが子どもすぎるのがそもそもの問題なんじゃねえの?くらいに。

「うちの子に文句あるんかいウラウラ」

て、ありがちなやつですな。

でもこれって私も、「親から見た都合の良い子でいて欲しい」という幻想の罠にハマってたってことなんですよね。

本当に子どもに文句がないところまで、子どもを受け入れていない証拠。

「子どもにとって一番幸せなのは、自分のペースで成長できること」

とことんまで我が子を受け入れているなら、徹底して子ども生来のペースを受け入れて、その上で環境を整えてやる覚悟ができるはず。

自分で言っといて自分でできてなかったんですな。

 

子育てって親がどれだけ子どもと向き合えているか、その一言に尽きる。

向き合うって、一緒に遊ぶ時間の長さとか、そういうことではなくて。

うちの次男はおねしょが長かったです。

膀胱は腎がコントロールする管轄なんですけど、中医学的に腎の成長は年齢によっていて、男は8の倍数、女は7の倍数で満ちていきます。

養命酒のCMでお馴染みのやつね。

つまり男の子は8歳、女の子は7歳までは腎がとても未熟なので、そのくらいまでのおねしょはあって当たり前なんです。

誰それはもうおむつ外れてるのにとかいつまでもおねしょが治らないとかお母さんが悩んで無理やり薬でなんとかしようとか子どもを脅したりなだめたりすかしたりしてもですね、腎が未熟なんでそもそも子ども自身にコントロールが無理なんです、無理。

むしろ「おねしょしたら怒るよ」なんて恫喝は子どもにとっては抑圧にしかならない。だって体が未熟なんですもの、「やらないように」なんてできるわけがないじゃん。

うちは、長男は腎の成長が早い方なのでおねしょもほとんどしたことがないのですが、それでも7歳くらいまで「やべ!」って起きたであろうシミパンがよく洗濯機に投げ込まれておりました。

次男も性器の成長とともに格段におねしょが減っていっていたのですが、まだ時々は不意打ちにあったりしてね、落ち込むのよ、そういう時に限ってガードしていないんだよ~(;ω;)

6歳前かな、ちょっとしたことが起きて、そうか私がこの子のままを受け入れてないんだ、と腑に落ちたら、そこからピタッとおねしょが止まりました。

なにか特別なことをするわけではない、なにか特別な言葉をかけたわけでもない、ただ私の「うちの子はこうあらねばならない」がふっと取れたら、「母から受け入れられたエネルギー」が彼に伝わったんですね。

全てのおねしょの原因がこれというわけではなくてあくまでもうちはこれだったというだけではありますが、それでも、人間関係って究極は、エネルギーなんだなあと体感した今ココ。

 

そんなタイミングで、田中ビネーを受ける順番が回ってきましたに話が戻る。

昨今はワクチン過多のお陰かどうかこの分野が大盛況で、順番待ち4ヶ月でした。NPO団体が主催されているものに申し込んだのでまだ早い方だったけど。

診断される方の言葉で一番引っかかったのは、

 「この問題の時はこういう答えを期待しているのですが、この子はこういう答え方をした」

という言い方。

以前の私なら、なにそれ、ってちゃぶ台ひっくり返して帰ってきたと思うわw

ずっと診断を聞いていると、次男は一貫して「自分のペースでやりたいことをやる子」であり、「彼にとって人にどう見られるかの評価は関係ない」ことがわかる。

なんだ、やっぱそうなんじゃん。つか田中ビネーすげえな、合ってるわ。←上からw

ひとつ、大きな収穫だったのは、自分のペースでやりたいことをやり他者の評価は関係ないので、言葉を発するという行為を通して自分で自分の場を作るという努力をしないもしくはあきらめてしまう、という彼の特徴が言語化できたこと。

なるほど彼に対する違和感はそこか、と。

子どもが一人の時は親もひとりだけ見ればよいのでチャンネルも合わせやすいのですが、二人になると二人の中間点というか最大公約数に合わせて行動するので、言葉が達者だったり意思がハッキリしているひとりめに焦点を合わせがちになっちゃう。

特にうちは長男がやりたいことを積極的にやる好奇心旺盛な性格なので、弟はただついていくだけで色んな収穫が得られてラクなんですよね。

「あなたはどうしたいの?」と聞かれる機会が格段に少なかった。はい私ですね反省してまーす!

そしてフロンティアなひとりめと、おとなしいふたりめができあがる。あるある。

ここに「加配」と呼ばれる保育サポートをつけると、日常の保育で付かず離れず見ていてくれて(付かず離れずが重要)、ここ、という時に、「こう言いたいんだよね」とか「こんな風に言ってるみたいよ」とか橋渡し的役をしてくれる大人がいてくれることによって、集団の中で自分に心地よい場を作り上げていくコツを身に付けていく、ということらしいです。

まあここも結局は親である私の向き合い方なんだろうなとは思うのですが、残り少ない幼児教育期間を有意義に過ごす環境を作ることはやぶさかではないので、加配サポートを申し込みました。

まだコロ休だけどさ。

 

そもそも3歳や4歳の子どもが大人数の集団にそんなに簡単になじめるかというと。

3歳はまだ「個」の年頃なんで、お互いに勝手にやってるからそれほど問題もないのでしょうけど、4歳代になってくると、それでなくても人間始めの子どもたちが大勢たかって口でも体でも主張しあうんですから、そりゃ苦手な子も出てくると思いますよ。

大人だってね、何しでかすかわからない集団の中で自分らしさを保てるかといったら、無理でしょう。たとえは悪いかもしれないけど自分がもし突然見知らぬ刑務所とかに突っ込まれたらどうふるまえるか、想像してみなされ。

長男は小人数の幼稚園だったし、なんなら小学校はさらに少人数だったので、そういうショックを受けずにここまで来たというのもあるかもしれないです。

だからといって大人数がよくないかというと、それはそれでいいところもあるしハードルが高めな分クリアできる問題も多いでしょうし、なによりこの人が選んだ人生ですからね。

少人数で育ってるうちの長男に問題がないかというと、この人はこの人で注意されることにすごく弱い人なのでね、「褒めて育てる」の罠にハマったなと( ノД`)私もひとりめはお母さん初心者ですのでね、幼児教育に明るい人は子どもの「できる」を基準にはしない子育てができてうらやましいなと思ったりします。どうしてもね~、よくできたねすごいね、って言っちゃうのよね~~

 

発達のテストは、知能とは別で、「漠然とこの子が心配」とか「人と比べてもしや遅いのでは」などという動機ではなくて、この子の個性を存分に発揮するために周りの大人がサポートをするための認識を共有する目的として受けるなら、プラスになるのではと思います。

実はこの世は全てがエネルギー、子育ても親がどんなエネルギーを乗せるかで結果は全く変わってきます。特に子どもは言葉以外の見えない領域にとても敏感ですから。

このコロ休中に、うちの屋根のひさしに巣をつくっているムクドリのヒナが落下してきまして、奇跡的に生きていたのでレスキュー、2週間ほど継母やって数日前に無事自然に還りました。

2時間毎に練り餌やらミルワーム潰したエサやらを与えるという、子どもの離乳食だってろくすっぽ作ったことがないこの私が、と思いつつ、夜はがっつり寝てくれるので、夜間授乳がないだけ人間の子育てよりははるかに楽でした。しかもあっという間に巣立つし。人間マジめんどくさい(;´Д`)

でもね、相手は野鳥だし飛ばすの前提だからなにひとつ期待してないし、なにひとつ将来の心配もしてないから、純粋にヒナ育てが楽しめるし、飛び立った後はもう、彼の身に何が起ころうとどうにかできるわけではない。本当にスパっと手が離れる。

人間の子育てもこんな風に純粋に、なにも心配しないで受け入れて、ただ温めてお腹を満たしてあとは愛だけで繋がれたら、本当に幸せな育児ができるんだろうなと思いました。

やっぱり目指すのは縄文だね!

 

ではまた~♡

 

ムクドリのムックン。

落ちてきた最初はヒヨドリだと思ってたから、ひよちゃんだったw

コロ休狙って落ちてきたとしか思えん~

f:id:umetsubasa:20200601104806j:plain

 

 

うちの次男様は素晴らしいと思う件

こんにちはです(^▽^)

ブログではずいぶんお久しぶりになってしまいました。

私とむしろ台所診療所が運営する育児有料サイト「アンテナ」では努めて書くようにしているつもりではありますが、何せ私の場合「文は自動書記」なのでw、エモーションが沸かないと書けない…ライターって商売にはきっと向かないわw


コロちゃん騒動の中、皆さまお元気でお過ごしでしょうか♡

うちも例に漏れず学校も幼稚園もがっつり閉鎖になってしまいましたが、本気で楽しい毎日を過ごしております。コロちゃんありがとーー!!(なぜ楽しいかは後述します)

ありがちな「子どもらのお昼の口をふさぐ問題」についても、去年からレッスンを受けている米粉パンで回避。

すごく美味しくて子どもらも大好きだし材料費もそれほどかからないし、もう普通のパン屋さんに足を止めることは全くなくなってきました。そういえばパスタも全く欲しくなくなったから「小麦粉は中毒性」説に一票。

ちなみに今日のお昼はシーチキンとコーンの米粉クリームピザでございます♡

 

私がレッスンを受けているところ→

みるキッチンもぐもぐ

(アンテナのメンバーさんなの♡)

 

小学校の一応建前としては、「午前中は家で家庭学習」なのですが。

子どもの勉強を見るとかマジ無理な私は、ネットの波からこういうものを発見して観せております。

 

探究学舎 

http:// https://tanqgakusha.jp/

 

コロちゃんで困っているご家庭に、期間限定の無料で授業を配信してくれています。

内容は、普通の授業とは違って、子どもの興味をそそるような、宇宙の話とか映画の話とか、学年を問わず観られるお話。

時間も午前中の2時間くらいなので、我が家のペースにぴったり。5歳の次男も半分くらいまではお兄ちゃんと頑張って観られているよう。

午後は、クラスの同級生たちとうちの前の河原で遊んでいます。

みんな暇すぎて出席率が異様に高く、ここに担任の先生を呼んだら課外授業ができるんでねえ?くらいの勢いですw

この一か月でいかに秘密基地を作るか、しか頭にないらしい。子どもすげえ。

雨の日はおうちで、紙ねんどやったりお絵かきしたり。

f:id:umetsubasa:20200301200945j:plain

左が次男作、右が私作のペンギンさん。なかよし風でこの作品がとっても気に入っています♡

夜は花札かトランプの相手。

f:id:umetsubasa:20200309221216j:plain

うちにはこういうふざけた花札しかなくてねえ。デザインされ過ぎていて絵の判断がまあまあ難しく、実用にあまり向かない。ムーミン花札なんか赤タンに文字が書かれていないんだぜ?記憶でしか役を作れないじゃんね。

 

というわけで毎日がっつり子どもの相手をしている私ですが。

これが毎日とても楽しくて、この時間を作ってくれたコロちゃんにとても感謝しているのです。

普通なら、というか、今までの私だったら、「仕事せなあかんのに子どもがずっといるとかずっと相手しているとかマジでくそダルい💢」としか思わなかったんですけどね。誰よりも子ども嫌いだしさ。

特に、次男との時間が取れるのがうれしい。

長男は当然初めての子どもなので、次男が生まれるまでの4年間母とはマンツーだし、彼とはがっつり遊んだ自信がありますが、次男は二人目なので新鮮味がないというか、私の子育てへの意欲も落ち気味というか、母と遊んだ絶対時間が少ないんですよね。

なので長男が同級生と遊んでいる間、ほぼ毎日次男と公園デートをしています。

お兄ちゃんラブな次男には、お兄ちゃんがお友達と遊ばない日は嫌われる母なんですけどね( ;∀;)

 

「愛」と「愛すること」は違う。

子どもが健やかに育つには、どちらかではなく、そのどちらも必要なんだーー。

この記事を読んだとき、頭をガツンと叩かれたような、今まで感じていたモヤモヤがスッキリ晴れたような、そんな感じがしました。

 

『チョコレートドーナツ』の映画は家族愛とは何か、子どもの幸福とは何か、何を大切に生きるのかを考える | AI-am

 

これは「チョコレートドーナツ」という映画のレビュ

ーなんですが。

そして映画そのものはまだ私は観ていないのですがw観てない私が死ぬほどざっくり内容を説明すると、あるゲイカップルが、薬物依存でシングルの母に育てられていたダウン症の子を引き取って養育する、という話のようです。(実話だそうです)

ここにこんな一文がありました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はじめて3人でごはんを食べたとき、ごはんを食べようとしないマルコに、ポールは「好物は?」と聞く。

マルコは「ドーナツ」とこたえる。

それに対してルディは「夕食にドーナツなんて体に悪いから」と言う。

ポールは、ラッキーなことにちょうど家にあったチョコレートドーナツを「たまになら害はないよ」と言って出してくる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

映画の紹介文では、「愛のない家庭で育てられたダウン症の子ども」と書かれてますが、レビューの執筆者はそうではない、と言います。

薬物依存でシングルのこの母は、このダウン症の子どもを抱えて、少なくとも放り出すことはせず、14歳になるまで養育した。

つまり、子どもを育てるだけの愛はあった。

ただ、「愛すること」を知らなかっただけだ。

「チョコレートドーナツ」という象徴的な題材を使い、「夕飯にドーナツなんて体に悪い」という、子どもに対する「愛」と、それに対して「君はどうしたい?」と、ダウン症の子どもに聞く、子どもを「愛すること」について、対照的に表現している、と。

これを読んだ時、

そうか、

と、

愛すること

とは、違うのか!

目から鱗がボロボロ落ちまくりました。

 

私たちの中に「愛」はあります。

特にこのブログにたどり着く人たちや、私も含めて世に言う「子育てに熱心な」人たちは、ことのほか愛が強い人たちだと思います。

子どものために、あれをしなくてはこれをしなくては、これは体に悪いからあれは教育に良いから、食べ物に気をつけ放射能を避け色んなことを一生懸命調べて世の中に怒りを感じたり行動したり、それも私たちの中にあるたくさんの「愛」です。

それ自体はとても尊いものだと思います。

だけど、あまりに愛がたくさんだと、「〜でなくてはならない」にいっぱいいっぱいになってしまい、「愛する」という行為まて手が回らなくなりがちで、結果子どもは「愛」を「抑圧」と感じてしまうことに陥りやすい。

抑圧を感じ、「僕を見て!愛して!」とSOSを発した時、体の不具合になって発現させる子どももいる。

発熱だったり湿疹だったり、時には虫歯だったり。

もちろん「愛すること」だけで「愛」がないのも、健やかに育ちにくいでしょう。

様々な不具合の原因が愛されないことだと仮定したとしても、どんだけ愛されていても幼い頃からのチョコレートドーナツの食い過ぎは当然虫歯になりやすいでしょうしw

甘やかし放題のジジババが子どもの言うがまま与えて将来に健康不安を残すことが良いこと、とも思いません。

 

じゃあ、「愛すること」って、なんでしょう?

この映画では、「ドーナツは体に悪い」というセリフに対し、「君はどうしたい?」と子どもに直接聞きます。

ドーナツを出されても食べようとしない子どもに対しても、「食べずに見るだけ?」と言って、待ちます。

ここには、子どもに対し「ねばならない」ではなく、「あなたはどうしたい?」と、存在を認め、信頼する姿があります。

与えているのは「安心(=愛すること)」であり、「正しさ(=愛)」や「~しないとこうなっちゃうよ」という「恐怖」ではないのです。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

わたしたち親は往々にして、自分のおもうようにこども(他者)を動かしたいとき、相手を責める言葉かけをしています(「そんなことでどーするの」「何回言ったらわかるの」など)

つまり、相手を責める言葉かけをしているときというのは(わかりやすいのは、叱っているときや怒っているとき)、自分のおもうようにこどもをコントロールしたいときです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

自分の思うように他者をコントロールしたい。

「愛」が強いと、時に陥りやすいところなんじゃないでしょうか。

犬猫は掛け値なくかわいいのに、自分の子であれよその子であれ子どもはどうも苦手、というとき、それは、子どもに対しては「どうにかしよう」とか「どうにかせねば」と思っているから。

犬猫に対しては、そういうことはない場合が多いですもんね。特に猫は、どちらかというと飼い主の方がどうにかされちゃうのかしらw

そうか、よく躾けられた犬に対する違和感って、そこか。

 

振り返って、「子どもを愛する」を、「自分」に置き換えてみる。

私たちは、「自分を愛して」いるでしょうか。

愛はあります。私の中にあります。

でも私は私に、「あなたはどうしたい?」と存在を認め、信頼しているでしょうか。

自分もかつては子どもだった。

子どもの自分は、「愛」はあっても、「愛されて」いたでしょうか。

今の自分は自分を愛してあげているでしょうか。

自分を愛してあげなければ(許可を出せなければ)、他者にも許可は出せないし、愛せてはいないはず。

特に私たち親世代は戦後の抑圧の強い拝金主義世代に育てられ「何者かにならねばならない」呪縛のもと、この「掛け値なく愛される」経験の少ない、幸せ感が少ない大人に成長しているかもしれません。

そしてそれを私たち自身が次世代につないでしまっている可能性はないでしょうか。

 

うちの次男は長男と違って、非常に「わかりにくい」子です。

長男はいわゆる「よくできた子」で、他者からの評価もそれほど悪くないし、表面的には手のかからない子です。

対照的に次男は、非常にマイペースだし同年代のお友達ともあまり馴染まないし、誰かと会うとあいさつもせずクラゲのように2つに折れますw←子どもにありがちなコレって緊張を逃しているので、やめさせない方が良いらしい〜

私も最初は戸惑いました。兄弟同じように育てているはずなのにこの違いはなんでやねんって。

愛(=今思うと、正しさ)は与えているはずなのに、同じ結果が出ないのはなんでだろう?って。

次男は、幼稚園があまり好きではありません。

1クラス30人弱という雑多な環境の中、自分のパーソナルスペースが他の子どもに侵食されがちなことがどうやら苦手なようで、一時期は園のホールに入ることすら拒否していました。

「ざわざわする音が嫌なのかな?」と先生が試しにイヤーマフを付けてくれたら入ることができたので、しばらくは教室でも自分判断で付けていました。今は付けなくても大丈夫らしいのですが。

園庭でもあまり遊ばないのですが、理由を聞くと「色んな人にぶつかっちゃうから」。

子どもがロッカーにわっと集まる帰り支度の時などが最も苦手らしく、みんなが支度が終わるまで待ってからゆっくりと自分の支度を始めるので、帰りの会に間に合ったことがありませんw

でも先生のお話は録音再生の如く聞き漏らさず聞いているので、そうかただ座っていることがいいというわけでもないんだな、と思いました。

みんなと並んで座ることも嫌なようで(密着するから)、ひとり違うところに椅子を置いて座ります。これも自分判断だそうです。

それをさせてくれる園にも感謝なのですが、私がすごいなと思ったのは、参観等で母である私が後ろにいても、次男は自分のペースを全く崩さないのです。

なるほど!私の前ですら良いカッコするとか怒られるかもとかマイナス評価されるとか、そういうのはないんだ、彼は自分の選択に自信を持って、自ら「やりたくて」コレをやっているんだ、こいつすげえな、と。

私だったらみんなと一緒でないことが不安だし「どう見られるか」が気になると思うし、長男もそういう人種だったりします。(だからよその人から怒られるとやたら長引くのよねw)

 

そんな「自分らしさ」を失わない彼に、私ができることはなんだろう?

アンテナメンバーの方の経験談で、この方は小さい頃なんでも言うことをきく「すごく良い子」だったらしいのですが、なんと、その頃の記憶が全くないのだそうです。

小学校3年生くらいの時彼女のお母さんが突然、「あ、この子にはこの子のペースがあるんだ」と気づいてから、彼女に記憶が残るようになったのだそうです。

これってすごく怖いことで、彼女はただ親や周りの愛に応えている間はまるで自分の意思で生きていなくて、だからその間の記憶がない。

お母さんが子どもを「愛すること」に気づいて初めて、彼女の人生が始まったのでしょう。

この話を聞くと、私にできることはただ、彼を愛すること、存在を認め、ありのままを認め、誰がなんと言おうと彼に「大丈夫だよ」と安心感を与えること、それだけなんじゃないかな、と思いました。

自分自身の人生を振り返っても、「何者かにならなければならない」との強迫観念のもと、「もっと、もっと!」と今を否定し上へ上へと自分を労ることをせず、自分を愛すること=今のままの自分を認めてあげてこなかったな、と思います。

でも、何者かにならなくても、可愛いアイドルになれないおブスでもすげえピアニストでも羽生結弦でなくても、英語を喋らなくても三流大学しか入れなくてしかも美容師とかはちゃめちゃな選択をしてきても、なんとかなってるし私は私の人生をそれなりに生きてこれてます。

親を恨んでも他人を妬んでもどうにもならない誰のせいでもないコレが私が選んだ人生だし、子どもたちにしても私なんかが起きてもいない将来をムダに心配したりバタバタしなくても、そうやって己の人生を創っていくことでしょう。

そんな時私にできることはただ、「何があっても大丈夫だよ」と彼を丸ごと受け入れ愛することだけ、なんじゃないかなと。

そうやって子どもを丸ごと受け入れるには、まず、親である自分が自分を丸ごと受け入れること、自分を愛する手段はただ、未来でも過去でもなく無心に今を生きる子どもと、共にいること。
ただ子どもと無心に過ごしているだけで、こちらも無心になれる。光をもらえるんですね。
だから今、このコロちゃん騒動で子どもをいられる時間ができたことが心から嬉しいし、毎日が楽しいんです。今ココ。

これをきっかけに日本全体が原点回帰みたいになって、本来ある姿に戻れるといいですね。おうちにかえろう~~♪

とくにお父さんたち、長男同級生のお父さんとかもリモートワークになって、子どもらの釣りに口を出す時間ができたみたいです。

口出したくもなると思うけどね、エサつけないで鯉釣ろうとしたりするからさ←うちの息子wつーくんってそんなにバカだったっけ?って言われたww

 

ま、うちの次男もね、あの人のことだから、この先きっと人前でち○んこ出すくらいのことはすると思うんだよね( ̄◇ ̄;)

その時は江頭2:50を優しく見つめるような目で

「う ん 、 大 丈 夫 」

と言えるくらい精神を鍛えておきとうございます。

あー将来が楽しみだなーっと。

 

 

☆むしろ台所×そえる堂謹製・有料育児オンラインサロン「アンテナ」
 入会随時募集してます。
 育児の悩みをみんなで共有、解決していくサロンです。西原式育児に限りません。
 興味ある方はメッセージください♡

 

☆おしげさんは現在・足ツボ屋さんですw

東京八王子の足つぼ・経筋施術サロン

がんばりすぎる子どもたち

おはこんばんちは。

ブログは自動書記・おしげでございますw

こんな顔してます。

f:id:umetsubasa:20191210101127j:image

長男が「掛け値なし」の似顔絵を描いてくれまして、あまりに直球でもういっそ名刺に載せようかと検討中。

お前な、もうちょっと人生ゴマを擦らないと、いいトコにムコに行けんでえ?

 

お寒うございますが皆様におかれましてはお元気でお過ごしでしょうか(⌒∇⌒)

ブログ開始当初から気分が乗ると書くスタイルを貫いておりまして、最近は守護霊さんからのご指南じゃないかと壮大な開き直りをしておりますw

少し前に(私の中では『少し前』だw)、「ゲーム問題についての考察」というお題でここでうんちくを垂れさせていただきましたけど、最近、テレビやゲームについて子どもの体への影響を、中医学の観点からYouTubeでくっちゃべりましたので、もったいないからご笑納w

この視点から考える人は意外にいない、と自分で自負しております。いたらごめんねw

 

www.youtube.com

この問題、私に中医学を教えてくださってる人にも投げてみたんだけど、一言、

「ネットを抜く!」

って返ってきましたね。

理由・気血が足りなくなって正常な判断ができないから。やっぱ合ってたな。←答え合わせが事後っていう前のめりブリww

 

そんなわけでうちではゲームはいまだ買い与えておりませんが、クラスの子どもたちはみんなゲーム機を持っております。

保護者会であるお母さんが、「先生、うちの子にゲームするなって言ってもらえませんか?私が言っても聞かないんです、今の子って外で遊ばないんですね。」とのたまっておりまして、いやそりゃゲームなんて親が買い与えればやるよね?放っておいても健全に育つと思ってらっしゃる?そこ先生に言う??と、わりと驚きましたよと。

まあ世間ではそのくらいの捉え方なのかなと思ったりしますが。

それでもクラスの子たちは、うちの息子と遊ぶ時はゲーム機を置いて、サッカーしたり公園でアホみたいにグルグル走ったりしてくれます。小学3年男子、ほんとにアホ盛り…。

これってすごいことで、「翼君と遊びたい!」という気持ちだけで、あれだけ好きなゲーム機をわざわざ家に置いてきて、公園で遊んでくれたりするんですよ。

ね、ゲームなんかなくてもいじめになんかあわないでしょ?要はなんでもコンテンツなのよ。

まあね、長男も私の見えないところでは少しやらせてもらってるみたいですけど、そこまで興味は持てないようで、相変わらず家に帰ってくれば段ボール工作にまい進してます。

さくら(ダンナ実家の犬)のための、「自動水飲み器」。

さくらのばあばが好きな、「自動こんにゃくゼリーマシン」。

f:id:umetsubasa:20191210102558j:image

こんな段ボール送るのに送料が1600円もしやがってすんげえモヤモヤしたわ(゚д゚)

 

9歳長男様、ギャングエイジ真っ盛り。そろそろ親の庇護から離れ、お友達とつるむのが楽しくて仕方ないお年頃。

ゲーム機を買わないまでもこっそりやらせてもらう、それも大事な成長過程のようで、と今回のお題のつなぎになったりするんですが。

 

先日、次男幼稚園にて、「作品展」がありました。

子どもたちを4,5人くらいのグループに分け、テーマを決めてひとつの大型動物を共同制作するのです。

近くにある多摩動物公園へ行って、どんな動物を作りたいかを話し合って決めるところから作り始めます。

次男のグループのチョイスが、多摩動にはいないまさかの「カバ」でw、カバを作ったチームは園始まって以来なんだそうだww

f:id:umetsubasa:20191210102927j:image

これがねえ、子どもらを引っ掻き回す色んなドラマを生み出すのよ〜

グループ分けも担任によって隅々まで考えられていて、問題が勃発したり衝突したり葛藤しながら子どもたちがひと回りもふた回りも大きく成長していく、はっきり言ってカバやらキリンやらの仕上がりや出来はどうでも良いのだ。

大型動物をチームで作る、って、子どもには(大人もだろうけど)本当に大変で、そこにはちゃんとコミュニケーションがなければ完成には至らないのです。

地味くんのグループは意思疎通が言葉になかなかしづらいし、イケイケが集まったグループは早くできそうと思いきや、各々がやりたい事が見事にクラッシュして、作品展ギリギリまで良い人生経験を堪能しておりましたw

 

うちの次男は長男と違って、園ではあまり話さない主張しない、地味な人。

次男が配置されたグループは見事に地味同士で、チョイスする動物も地味。カバだしw

さあ作ろう、となっても、最初は全員が「ちーーん」状態。

でもいざ作り始めると、仕事は丁寧で良く観察されてる。

このカバ体の絶妙な色ったら!!

そしてカバの顔に輪切りストローで鼻を付けたのはうちの次男らしいwウケるww

 

一人で勝手に作りたいものを作る、その出来栄えをほめる、というのは親も先生もわかりやすいし簡単だけど。

作りたいものをみんなで意見をすり合わせてイメージを共有して、言いたいことを言えて相手の気持ちを考えて、世の中にはいろんな人がいて個性があって認め合って、という、そういう教育ってなかなか難しいじゃないですか。

英才教育ってなんだろうってすごく考えさせられたし、これからはこういう視点での教育が必要なんだなあと思いました。

 

そして。
この大型動物を作るにあたって超超超大事な学び!

「力を抜く」ということ。

この先の人生で「力を抜ける人になる」ことを教える、ということ。

うちの園はこの点で日本一進んでるらしい。と今さら外部の講師に聞いて知ったw

 

「力を抜く」ってどういうこと?

はい、私も成果主義の時代の人間なので、なんのこっちゃかわかりませんでしたとw

 毎年年中さんが大型動物を作っているのは知ってたけど、こんな意図があって作っていたなんて知らなかったし興味もないし。

家で工作やお絵かきしているときはとっても上手なのに、とモヤモヤ。

家では

f:id:umetsubasa:20191210102714j:image

こんなのとか

f:id:umetsubasa:20191213092004j:image

こんなのとか上手に作ったりするのにね〜

 

親の元を離れて幼稚園で共同生活する、子どもにとってはとても疲れることです。

それだけでも大変なのに、その上大型動物の共同制作なんてはっきりいって楽しいより大変で、大人が想像する以上に子どもはとても疲れるようです。

そりゃね、作り上げる労力もそうだけど、考えたり想像したり相手に伝えたり人の話を聞いたりなんて人生初の初めてづくし、ですもの。

そこでその子の「特徴」がすごく現れてくるんです。

 

大型動物の制作が進むにつれて、色んな子どもの様子の報告が上がってきます。

大抵は幼稚園でとても頑張るので、帰ってくると子どもは疲れ切って暴れてしまいます。

泣いたり暴れたりお母さんに暴力を振るったり兄弟に理不尽な当たり方をしたり。

疲れて登園行き渋りになったりもします。

親も思います、こんな思いまでして作る意図はどこにあるのだろう?

行き渋りに「休む?」と聞くと、「やっぱり行く」と答える子ども。

そうまでして苦労して出来上がった時の達成感はすごく大きいものではあります。

大型動物に乗って遊び、年少さんを招待して乗せて遊んで、色々大変だったけどやっぱり作ってよかったな、と思います。

この制作を通して子どもたちは成長するし、親も自分の子の「特性」に気づくきっかけになります。

あのね、意外に自分の子って、わかっているようでわかってないもんなのよ~
親が一番わかってないかもしれない。大抵の子どもは集団では全く違う顔をしているから。

疲れて暴れる子ども、頑張りすぎる子ども、言っているようで自分の意見は言えてない子ども、一見扱いにくそうで実は自分の意見を言えている子ども、etc。

色んな面が見えてくるのです。

そこでその子の特性を生かし、個々にどんな環境を整えていくか、親も園も考えるきっかけになります。

 

うちの子どもたちは、疲れて制御できなくなるなどという「波」がほとんどありません。

特に次男、24時間、彼が疲れておかしくなるとか暴れるとか、そういう場面には一度も遭遇したことがない。非常に安定している。

長男は食べない子だったので、年少の頃は時々限界値で帰ってきたかな。バス停で哺乳瓶持って待機して、園バス降りてきたら口に乳首突っ込むっていうw

次男は24時間ずっと同じペースで、自分のしたいときに自分で適当に力を抜いて休めるのですよ。

教えたわけでもないのに、誰かに負けない、とか、誰かに比べて頑張らなきゃ、とか、そういうものがないんです。

これ、簡単に言うけど、できる大人ってどれだけいると思います?

みんな、「ねばならない」でずっと走り続けていませんか?私を含めて。

何に追われているのかわからない、何を目指しているのかわからない、ひたすら頑張る、追いつき追い越され、「将来への恐怖」をネタに脅されるように走り続けることを幼い頃から刷り込まれ、結果心身のバランスを崩してしまう現代人のなんと多いことか。

みんな、「がんばれ、負けるな」は教わっても「力を抜く」「自分のペースで生きる」ということについては、教わらないで生きてきた結果なんだろうなと思います。

 

次男の心身の体調は、非常に安定しています。

次男と対峙していると、「あれ、そこで終わり?」という場面にちょいちょい遭遇しますが、それは彼なりに「疲れたから休む」という自己判断ができているのです。

そしてそれを母である私が、認められるか(=受け入れられるか)は、どこまで彼を知っているかによる、それがとても重要な気がします。

知らなければ、やきもきしますよね、あるいは我慢が足りないとかスパルタでやらせなきゃとか子どもの現在地を否定してしまう、あるいは自分の対応を責めてしまう。

私はただ、彼の不快を取り除くことしかやってこなかった。

何があっても彼自身を否定することなく、ただ、不快を取り除いてきたんです。結果論ですがw

長男については、私も母1年生でそこまで見聞も広くなかったのでね、私自身が成果主義の塊だし、色々やらせた面はあったと思います。

できてしまう人なので、しかも楽しくやってくれるので気づかなかったんですが、彼の脾虚(脾が弱いこと)は、ここから来ているのかなとちょっと反省。

要するに長男は、「力を抜けない」人なんですね。暴れたりはないけど、不調が出る時点で身体の声が聞けてない。

そりゃね、6歳でレゴ作り飲まず食わず13時間ぶっ続けとかやってればね(つД`)←止めろよ私も〜

 

次男は適当に休める人なんですが、「空気を読まずに」休むのでw、大型動物の制作ではさぞグループの皆様に迷惑をかけたのではと思いますww

グループは男女二人ずつ、真面目な女の子と、次男含むパッパラな男子w

次男は疲れたりするとすぐ息を抜きに遊びに行ってしまう。

残された真面目な女子はたいそうご立腹なわけです。

でも真面目な女の子はそれこそ「力を抜けない」子なので、家に帰れば限界を迎えて暴れます。

「自分が真面目に作っているのにみんな遊んでいて、ずるい、許せない」

と言います。

お母さんに、「でも、〇〇ちゃんもおうちに帰ったら休んだりするよね?いつ休むかはみんなそれぞれなんだよ。」

と言われて、そうか、と、自分との違いに気づいたりする。

真面目に一生懸命色を塗っているつもりで、みんなの手に筆で落書きをして、自分の手にも落書きをして、「はっ!私ったらなんてことを!!」と自分で自分の違う一面に気付けたりもする。

「みんな違ってみんないい」この言葉を言うのは簡単ですが、子どもたちはまさに体験を通して個の違いを学んでいるんです。

 

うちの幼稚園には、「虹の部屋」という部屋があります。

普通の幼稚園であればいわゆる発達に心配な子たちが集う部屋なのでしょうが、この幼稚園ではわりと気軽にこの部屋を使います。

集団で疲れたり、自分のペースをつかめない時、虹へいって休みます。自己判断で行く子もいます。そして自分でお部屋に帰ってきたりもします。

それが普通なので、虹にいる子たちを特別視する風潮もありません。

サポーターも気軽につきます。クラスの半分くらいはサポーターつけてるかな?

サポーターと呼ばれる補助の先生(たいていは卒園ママ)が、その子に合った声かけをしてくれます。

そうやって幼稚園で自分のペースをつかんだ子が小学校へ行くと、出来上がった集団に入っていくのは苦手だから朝は誰よりも早く学校へ行くとか、休み時間までみんなといるのは疲れるから教室で遊ぶとか、自分の状態を自分で判断してペースをつかめるようになるんだそうです。

この先これからの人生で、「自分のペースをつかむ」ということを教わることなんてないから、ここで徹底して教えたい、と園長は仰ってました。

素晴らしいと思いませんか?うらやましいぜ、私も虹へ行ってこようかな1年くらいw

これができないからみんながんばりすぎて、不登校になったり保健室登校したり、親も子も苦しむんだと思うんです。

この、個の違いを、今度は小学校や社会が受け入れられるようになって欲しい、と、卒園ママたちが小学校PTAに集まって動いている学校もあるのだそうです。

幼稚園の先生が用事があって小学校へ行ったら、PTA役員がうちの園の卒園ママばっかりだったとかねwさすがみんな前のめりだぜww

でも、そうだよね、うちの空気を読まないでいつでもマイペースな次男が、小学校という箱の中でどうやって評価されるかは、未知数だもんね。評価は別にいいけど、本人の生きづらさになっちゃうと、さてどうするかなと、今現在地ココwだってうちは園から遠すぎて、卒園生も同級生も誰もいないんだもーん。

 

そしてここで疑問。どうしてうちの次男は、24時間マイペースでいられるのか。

それは彼が、今まで無駄に心熱や肝熱が上がることなく、マイペースで成長して来られたから。

要するに、体に不快なく自分のペースでここまで成長できてきたら、体の声を聞けてるんじゃないかなと思ってます。

私も、普段の彼を知っているから、何かあった時は「体の不快を取る」ことだけをしてきて、あとは全て彼に任せていた。放置ともいうけどw、それが返って彼のペースに口を出すことなくここまで成長できてきたのかなと。

本能的に本当に欲しいものであるおっぱいミルクを存分に与えられ温かく育てられてきた子は、不快がなくとても穏やかで、本能のままに生きています。

その「ニュートラル」な状態を知っていると、なにか変化があった時にも、「変化の原因」である不快を取り除いてやるだけで、すぐに元のニュートラルな状態に戻ってくれます。

純粋に子ども自身を信じ、無駄に子どもを否定したり悩まなくても良くなります。

 私は、河口あすかさん主宰のむしろ台所診療所さんと、育児のオンラインサロン「アンテナ」を運営してますが(ほとんどあすかちゃんに丸投げですがw)、あるお子さんが、幼稚園に通い始め食が変わり体が冷え(自然派は無駄に薄着にさせる)、風邪を引いた後ひどいイヤイヤになった、と悩みを訴えたお母さんがいました。

何が悪かったのだろう?私の対応が悪かったのか?あれが悪かったかこれが悪かったか、お母さんは自問自答します。

でも、子どもからすれば、様々な環境の変化に身体が対応できなくなり、SOSを出していただけで決してお母さんを困らせる悪魔に変身したのではないし、イヤイヤが言えるということはそれだけお母さんを信頼しているからできたことだと思うのです。

だからその場合は、自分や子どもを否定することなく子どものありのままを信じ、ただ不快を取り除いてやればよい、子どものペースで戻ることを見守ってやればよいだけなのです。

ここで子どもの「真の姿」を知らなければ、「魔の3歳児」なんてレッテルを貼って、「ねばならない」にがんじがらめになったかもしれません。

 

普通私たちは日本で子どもを産むと、無数の「ねばならない」でがんじがらめになります。

〇ヵ月で離乳食を始めなければならない、〇ヵ月でおっぱいはやめてなければならない、〇歳ではしゃべれてなくてならなくて食べるものはなんでも食べられないといけなくてetc,etc……

「普通に育つ」モデルを据えられマニュアルに縛られて、普通って何?と疑問に思いながらも肝心の子どもの「声」を聞く余裕はほとんどありません。

西原式育児で育てているお母さんはそういう世の中の常識から離れ、ゆったりと子育てをしています。

そんなお母さんが子どもを連れて1歳半検診へ行くと、世の中の「ねばならない」に晒されて度肝を抜かれるわけですよ。

身長も体重も曲線ど真ん中なのに「食べてない」というだけで別室へ連れていかれ、パンにジャムを塗って食べさせたらどうだ、ごはんにふりかけをかけたら食べるんじゃないか、心配してくれる気持ちはありがたいですが、首をぶんぶん振って拒否している子どもに無理やりパンを口に突っ込んでおっぱい取り上げて、それで「正常に」発達できるとはどうしても思えない。

思えないですがコレを何の疑問もなくやっているのが、今の母子行政ですから。

いかに「ねばならない」が人の心身を壊していくか、いかに日本全体がなんの根拠もなく「ねばならない」に縛られているか。

そして思うの。

自分のペースで成長できるということが、子どもにとってどれほど幸せなことか

ということを。

うちの幼稚園も「ねばならない」で四苦八苦してきたお母さんたちが、育児に苦労する中でこの幼稚園に出会い、ひとつの「ねばならない」を外して、子どもが自分のペースで生きることを受け入れられるようになった。

どんな育児をしていようとも、頑張る子もいれば頑張らない子もいる、子ども本来の素のままの姿を認めて(見抜いて)、自分のペースで成長するのをただ見守ってあげること、これが「ありのまま生きる」ということなのかなあ、と自戒も含めて思いました。

子どものありのままを認める、見抜く、ここに親スキルが必要になってくるんだろうな。親自身も自分と対峙せざるを得なくなるもんね。

 

いつから始めても遅くない、気付いた時がきっとその人のベストタイミング。

先日小学校のマラソン大会があり、うちの「頑張っていることに気づかない」長男は、今年出場しませんでした。

親の私が大会役員でこの寒空早朝から詰めてるってのにお前走らんか!っとちょっと思いましたけどw、マラソンが好きではない長男は、「今年は練習も出なかった」と。

実際は「練習を頑張らなかった」という意味だったそうですが、去年は練習からすごく頑張って、でも当日体調が悪くても出場し成績が振るわなかったことを思えば、「やらない」と言えたことに、おお!言えた!と思いました。

これは彼のクラスの保健室登校をしている同級生が、「やりたくないときはやりたくないでいいんだよ」と体で教えてくれてるような気がします。

おかげで長男も少しずつ、自分のペースで生きることを模索しているようです。

保健室登校の子も1年生の頃から放課後引きこもりでしたが、3年生になって急にゲームを置いて長男と遊んでくれるようになり、選ぶ遊びも、鬼ごっこかかくれんぼ。私が気を遣ってボードゲームとか置いても見向きもしない。

でも体を動かすから、気血の流れが良くなってみるみるうちに顔色が良くなってきていて、教室に登校できる日も遠くないんじゃないかなと思います。

ね、人同士が関わりあうって素敵なことだよね。

 

次男もね、生き方はマイペースなんだけど、彼の中に「お兄ちゃん」という理想像があるので、なかなか自分に自信が持てません。

これは親の関わり方も多いに問題があったんだと思うけど( ;∀;)、「あんな風にでき

ない」と自分で自分を評価してしまっているようで、そこはもう、自信がつくまで気長に待ってあげるしかないのかな。

ひとつひとつを丁寧に味わって成長している次男は素晴らしいし発達も十分だと思うのだが、そもそも4年も先に生まれてる人と同じ土俵に立とうとするって、良くも悪くも2人目のサガかしらね〜( ノД`)兄弟ってそういうもん?

 

最後に。

量子医学の人に教わった、

「親も子も緩む」

簡単な方法。

子どもと夜お布団に入ったら、ゲーム感覚で思いっきり縮みます。

頭も手も足もぎゅーーーーっと縮んで縮んで縮んで〜〜、せーーーのっ!で、パッッッ!!と全身の力を抜きます。

そのままおやすみなさーい!

わざとらしいくらい大げさにやるといいです。

うちは子どもたち2人ともこれが大好きで、私が沈没してもふたりで何度もやってたりしますw

 交感神経と副交感神経、要するに気が緊張するか気が緩むかの違いなんだけど、このバランスが崩れて交感神経が優位になると、自律神経失調症になったりするんですよね。

だいたいは知らず知らずに交感神経が優位になっている。身体のあちこちが緊張していると気血が滞っちゃう。

寝る前くらいはリリースしてあげると、いいことがあるかもね♡

 

ではまた♡♡

 

 

☆むしろ台所×そえる堂謹製・有料育児オンラインサロン「アンテナ」
 入会随時募集してます。
 育児の悩みをみんなで共有、解決していくサロンです。西原式育児に限りません。
 興味ある方はメッセージください♡

 

☆おしげさんは現在・足ツボ屋さんですw

東京八王子の足つぼ・経筋施術サロン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マイナスの言葉がつくる人生

いきなり衝撃タイトルですんませんw

別に世間にケンカふっかけているわけじゃないのよw 

 

とりあえずクッション画像置いとくか。

先日次男幼稚園運動会がありましたん。

f:id:umetsubasa:20191021210351j:image

今年は予行から半袖半ズボンにしてやったぜ。

去年は長袖長ズボン履かせて、全学年向けのお便りでキビしく注意されたぜw←長袖長ズボンだったのうちの子だけだったから名指しされたも同じww

絵本「とべバッタ」の音楽劇でバッタ役になるらしく、バッタに見えるよう服は全身青で揃えてみた。

バッタは緑だって?全身緑にするとガチャピンになるんだよっ!

 

こちらは長男作・プラレールツインタワー。

どんなプラレール博でも、らせんで完全ループするよう組んでいる作品には今まで出会ったことがないぞ、と。

[http://:title]

これはこの間開催された西原式研究会オフ会にて、会場に我が家のありったけのプラレールを運んで、長男じきじきに作り方を伝授しましたw

「おかあさんたちへ。まず、大量に線路を買ってください」

という長男のアドバイスが、吹いたww

 

 

えーと、本題。

ここのところ、波動とか量子とか、そういう、今まで「オカルト」と一笑に付されていた分野が、にわかに台頭していきているように感じます。

特に令和になって顕著だなあと、思います。目覚め始めた人が増えてきたというか。

例にもれず私にもそういう出会いがあり、その分野にお世話になり始め、今までの自分の中での様々な矛盾点が統合されつつあります。

人はみな課題をもってこの世に生まれてきますが、生きづらさや人生の課題、そういったものの根っこはどこにあるのか、どのように解消していくのか、リアルに体験できていて大変面白いです。

 

体験していて驚くのは、人の人生でのネガティブな言葉や、抑圧、恐怖、そういったマイナス体験というのは、ここまで人の心や体に影響しているんだなあ、ということです。

人は誰でも生まれたときは100%光だそうですが、その魂の人生での課題を2,3歳くらいには近親者から受け取るそうです(親とは限らない)。

それは、恐れだったり、怒りだったり、憎しみだったり妬みだったり、人により色々ではありますが、生を受けたこの世でそれらを体験しながらまた、光へと還っていく。

人によってはなかなか重い課題だったり、考え方のクセのようなもので解消しづらかったり。

「自分と向き合うこと」そのものを課題として生きる魂もあるようで、それは一番辛いなあなんて思ってしまう、向き合えない違和感を感じながらも色んなところかじり倒しては、自分探しの旅を放浪しちゃうもんね。

 

そもそも観念でがんじがらめの人は、人生そのものがマイナスの言葉で固められまくっているように感じます。

物事には必ず光と闇の二面があって、マイナスの言葉で固まっていると、とにかく闇の面ばかりを拾いたがる。

その根っこはどこにあるのか?を探ると、親との関係だったり、今までかけられてきた言葉だったり、色々です。

 

人の意識には、顕在意識と潜在意識があります。

顕在意識とは、私たちがリアルに見たり感じたり思ったりといった、「体験できる」意識のことですが、これは全意識の中の10%に過ぎないそうです。

脳みその90%は潜在意識、つまり大部分は無意識で、私たちが意識的にどうにかしようと思ってもできない部分です。

ここに入る色々な情報や言葉は、実際の私たちの人生に大変大きな影響をもたらします。

そして潜在意識には、難しい言葉は入らないそうです。

例えば、最近の口の悪い子どもがよく言いますが、友達に向かって「お前死ねよ」と言ったとする。

顕在意識は、他人に向かって死ねと言い放っているのに、自分の言葉を一番聞いている自分の無意識は「死ね」という言葉を拾ってしまう。

つまり、自分に向かって「死ね」と言っているんですね。

究極の自己否定。言葉がどれだけ恐ろしいものか、がわかります。

そしてその、友達に向かって「お前死ねよ」と言っている子どもは、さて、何が原因でその言葉を発しているのでしょう。

 

私自身は、普通に母子手帳育児で育てられた、大変自己肯定感の低い、普通の日本人です。

子どもの頃は人見知りは激しいし、しょっちゅう扁桃腺腫らしてろくすっぽ保育園も行けてなかったし、ずっと泣いていたことしか記憶にないし、頭も運動神経もよろしくなく、いじめにもあっているし、まあ言ってしまえば「かわいくない子ども」でしたよ、ひいき目に見ても。

私の頃は食べ物も薬もワクチンも世代間濃縮が低かったので、アレルギーなどがないのが救い。そもそもアレルギーといわれる子どもはほとんどいなかったと思うわ。(アレルギーという概念そのものがなかったはず)

私の自己肯定感の低さに至っては、もうね、むしろ台所の河口あすかに「おしげさんはどう褒めたら受け入れてくれるんですかっ!」とさじを投げられたくらい、自分を認めなかった女ですw

例にもれず、闇が大好きで、物事の闇面ばかり拾いますし、被害者意識のカタマリですし、少し前までは「怒りは世界を変える」と本気で信じてました。(怒りは世界を変えない、と知った時の私の愕然ぶりったら…うつみんに教えてあげたいw)

 

でもね。

自分の子どもに関しては、闇を拾うことはほとんどないんですよ。

なぜだか、「この子は100%光だ」とどこかで固く信じているところがあって、この子のありのままでいいんだ、余計なことは必要ないんだ、と、疑うことがないんです、この10年近くずっと。

だから、何があっても、子どもに対して心配というものをほとんどすることがないの。

こんなハチャメチャな、子どもなんて元来好きでも何でもないし、闇ばかり拾う人間で親としてどうなのよというこの私が、自分の子どもの闇だけは拾わないなんて、おかしな話じゃないですか。

本来なら絶対、虐待親案件ですって。

むしろうちの幼稚園のママたちなんて、子育てについて本当に良く勉強しているし、子どもに対してもとても我慢強い。

だけどその努力に見合った結果が出ているかというと、まるで小さい頃の私を見ているようで。

 

なんでだろう?と思ってて、気づいた。

西原式育児はまさに、「子どもはありのままで全てを備えた素晴らしい存在であり、我々は限界まで余計なことはしてはならない」という、徹底して「性善説」な育児である、ということなんです。

子ども自身も、余計なことをせず育てられるので体が不快でなく、ネガティブな行動や考えをしなくてすむので、周囲からのネガティブな言葉がけも格段に少なく、闇を拾わないんです。

つまり、本能に根ざした、「子どもの光を拾える唯一の育児」なんですよ。

心身は一体、特に小さければ小さいほど体の不快は心のダメージに直結します。

どんな理由であれ身体が「被害」を受ければ、心には文字通り「被害者意識」が育っちゃうわけですよね。

この被害者意識がどれだけ厄介か、これがどうにかなるだけでも人生相当思い通りですわ。

前にも書きましたが、自立というのは、どれだけ物理的に皮膚感覚を埋められたか、に尽きるんですって。

そこ埋められてない人って多くって、偉そうにぶっこいてる爺さんでも実は自立してない人が多い。

充分に皮膚感覚を満たされた子は、安心して外へ出ていける。

逆に体に辛い思いをすれば、文字通り被害を被り、心の中には被害者意識が育っていく。

それほどまでに、心と体は一体であり、体への不快は心にダメージを与えていくんです。

 

お友達の子どもに、兄(6歳・アトピー喘息気味)と弟(4歳・アトピー気味)がいました。

ある時弟君がお母さんのお手伝いで、何かを並べるということを思いつきました。

発案者は弟君ですが、同じことを兄君もやりたがったので、交代で、ただし発案者の弟君が優先で、という、よくある展開になりました。

並べ終えて、同じことをもう一度やろうという時、兄君は自分と弟が並べた回数を正確に覚えていて、

「ボクは〇回『しか』やらせてもらってない!」と怒り始めました。

弟君は兄君が怒ると痛い目にあうのをよく承知しているので、あっさりとその場を譲りました。

ここで兄君は本来なら「やらせてもらっている側」であるはずなのに、「〇回しかやらせてくれない」という「被害者意識」だけが記憶に残って、弟が譲ったこともたくさんやらせてもらったことへの感謝の気持ちも、良い記憶はひとつも残りませんでした。

兄君は、闇を拾う思考癖がもう、こんな小さなころから身に沁みついている。

お母さんやお父さんが何をやっても、どんなに彼を優先しても、彼には「~してもらえなかった」という気持ちしか残らないんです。

実際イヤイヤはひどく手のかかる子ですから、親は「あの子にはあんなに手をかけたのに」という気持ちを持ち続けますが、子は「辛い気持ちをわかってもらえなかった」という反対の気持ちをずっと持ち続ける。

ここにとても不幸な親と子の不咬合が生じてしまうのです。

なるほどこうやってネガティブな記憶は形成されていくのかーと、目の当たりにしました。

この場合暴力で我慢を知る弟君にも、良い影響にはならないでしょうね。

こういった思考癖が人生に大きな影響を与えることは想像に難くなく。

身に覚えはありませんか?

私はありますw

 

幼いころの記憶って、幸せだったかしら、不幸だったかしら?

私には、泣いていた記憶しかありません。

でも私にだって良いことも楽しいこともたくさんあったはずです。

父も母も、ひとりっ子だった私を一生懸命育ててくれていたのはわかっています。

なのに、闇を拾う思考癖が身に付いているから、私には楽しい記憶があまりないんです。

そして私が泣いていた記憶は、体が辛かった記憶と直結しています。

子どもの頃の記憶が楽しい記憶である、つまり心身ともに満たされた自己肯定感の高い子どもを育てるには、体に不快のない育児をしてやることが最も近道であり、最も簡単で根本的であるのではないか、と私は思うのです。

だってね、親になる人はみんなが生まれつき子育てのプロですか?

寝ても覚めてもイヤイヤイヤイヤ、あれは嫌だこれは嫌だママ大嫌いパパ大嫌いって暴れられて、毎日どこで地雷を踏み抜くかビクビクしながらひたすら嵐が過ぎ去るのを待つ育児って、一つのネガティブな感情も持たずに子どもを育て上げられるかと言ったら、出来る人はいるのかもだけど、正直私は無理です。人間だもの。byみつを。

なんだっけ、お父さんが額の汗を拭ったらそれが地雷になって暴れまくって、通行人に「誘拐犯です」って通報された話があったなこないだ。

お父さんは世間の無理解に憤慨してたけど、違うよね。このくらいの子どもが、保護者が誘拐犯と通報されるくらい暴れるのが人間のデフォルトだとしたら、とっくに絶滅してます私たち。

子育てが不自然に感じるとしたら、それは自分や子どもや社会が悪いのではなく、育て方そのものが不自然である可能性はないでしょうか?

 

実際、うちの子どもたちには、無意味に暴れることもないし、闇を拾う思考もほとんどありません。

これは、自分の消化能力を超えるようなものを食べることなく育ち、胃の熱が上がりづらいから、ベースが穏やかでいられるんですね。

消化が負担で胃熱が高いと、隣の臓器である心の熱や肝の熱が簡単に上がってしまい、それでなくても子どもは陽の気が高いのに、何かがあればすぐに振り切れます。

まさに一触即発、本当に些細な、どうでもいいことでキレたように暴れたり泣きわめいたりする理不尽は、ここから来ています。

ちなみに、肝は怒りを司り、心は喜びを司るので(この場合の喜びは躁鬱病躁状態を指す言葉)、肝の熱が振り切れていれば怒ったり泣きわめいたりし、心の熱が上がりきっていれば多動のような症状で現れます。

 

先日、2歳半くらいの、ちょっと心熱が上がってる男の子が、次男が一生懸命組み立てていたレゴをひっくり返しました。

「この人ってこんなに怒ることあるんだ〜」ってくらい次男様怒ったんですけど、数分で収まり、高いところに避難させたレゴの警備員に変身w

このあと、心熱の高かった男の子にある処置をして心熱を下げたら、すっと落ち着き、すぐ二人は仲良く遊び始めました。

つまり次男は、されたことを根に持たず(闇を拾わない)、平常を取り戻した男の子とはちゃんと遊びを再開したのです。(これ、誰も彼も仲良くしなさいと強制したら返って歪むよね)

普段から内臓の熱が上がってない次男は、怒っても数分で済み(我慢せず怒りを出せた、というのも大事)、さっと切り替えることができました。

これが胃熱が高いと、振り切れたままなかなか元に戻りません。

延々とぐずり続ける子どものお腹の中は、こういうことになってます。

切り替えができない、とは、子どもなりにこういう事情があるのです。

決してお母さんを困らせようと思ってやっているのではなく、本人すらアンコントローラブルな状態であり、その子が否定されるべきではないのです。

どれほど食べるものが大事か、消化が負担でないことが大事か、ということですね。

ちなみにこの心熱の高かった男の子はその後、お母さんの突出した努力とアンテナにより、今は光の道を歩み始めています。

子どもの現在地を認め行動するこのお母さんは、本当に素晴らしいです、脱帽です!なかなかできることではない〜

 

長男も小学校へ行きはじめてから、色々周りに影響されている部分はありますが、根っこは自己を肯定する力があると信じられるので、困難が起こっても、それも彼の今世の体験だと思って放って、じゃない見守ってwおけます。

だから、何かあっても、彼を信じた声かけができます。

フェイスブックでも書きましたが、先日こんな事件がありました。

 

 ある朝、長男学校へ送り出して洗濯物干そうとしたら、長男クラスで持ち回りで世話してるトカゲが、死んでいるのを見つけちゃいまして。
したら、だいぶ行ったはずの長男が走って戻ってきたから、
「忘れ物?トカゲならお亡くなりだよ」
「え?!うそ?!……………ホントだ……」

「……新しいの捕まえてきて戻した方が、みんなに怒られないかもしれない」

へえぇ〜〜この人でもこんなこと言うんだ〜〜
と、内心思いながら、
「そのまま持って行きなさい、今からじゃ間に合わないから、洗濯物干したら車で送ってってあげるから」

「僕ちゃんとお世話したのに」
「そうみんなに言えばいいじゃないよ」
「だって、信じてくれないかもしれないじゃん。C君とか、きっと言うよ、何でちゃんと世話しないんだよ!とか。」
朝からだいぶ落ち込みのようで、ああめんどくせぇ展開になったなあと思いながら。

「あのね。
生き物は死ぬのよ、特に自然で生きてたものなんだし、最初から病気だったかもしれないし。
誰が世話をしても誰の家にいてもいつかは死んだの。
死んだという事実は事実でしょ、そこから自分がどう行動するかが問題なのよ。
そりゃね、新しいの捕まえてきてごまかすこともできる、なんならみんなが忘れるまで黙ってることだってできる、何をやったっていい、どれが正解というわけじゃない。
だけど、その、自分が選んだ行動の結果は、自分が受ける、ということなのよ。
例えば普段、約束を守らなかったりいつも遅刻して人を待たせていたりしたら、楽しいことや大事なお仕事があっても、どうせあの人は時間に来ないからとかちゃんと仕事しないからとかでみんな声をかけてくれなくなっちゃう。
だけど、そういう人はみんなが声をかけてくれなくなった時、
『どうして僕だけ声をかけてくれないんだ!』
と怒るでしょう。
だけどそれは、普段の自分の選択の結果が自分に返ってきただけで、その責任を自分で取ってるだけなんだよね。

あなたはちゃんと世話をしていた、C君が、今日は僕は面倒だから世話しないって言った時も代わりに持って帰って世話をしていた、そのあなたの選択の結果も、あなたが受けるの。
だから、「死んだ」という事実は事実で、ちゃんとみんなに報告して、『世話をしていたけど死んじゃったよ、ごめんね、だからみんなで埋めるのを手伝って欲しい』と言ってごらん、今までのあなたの選択の結果がそこで出るから。」
と言って、虫かご待たせて校門へ突っ込んだ。
今日は朝から幼稚園運動会予行見に行ったりお当番バッジ作ったりで忙しいのよ、君のグズグズに付き合ってる暇はないっ!

で。帰ってきて。
「そういえばトカゲどうだった?」
「うん、みんな、そうなんだ〜って言ってくれたよ。みんなで明日埋めようね、ってことになったよ。」
「でしょ。それがあなたの普段の行動の結果だよ。それを信頼というのよ。」
満足そうに笑っておりましたとさ。

 

私も彼を100%信じているから言えた言葉ですが。

こういう展開ができると、親子のカルマって半分くらい解消できると思うんですよ。

そう、この育児は、脈々と受け継いできたカルマを自分の代で解消できる可能性すらある、と私は思っています。

 

そ  う  は  言  っ  て  も  。

正直、西原式育児メソッドだけで、そこまで到達できる人は少ないです。

というか、年々少なくなっているんじゃないかと感じる。

10〜20年近く前ならもっと打率は高かった気がするけど、今は、ちゃんとやってるのに湿疹だったりアレルギーだったり、イヤイヤが出てきたりと、私が経験した部分と違う、「どうしてだろう?」と考えざるを得ないパターンが多々出てきました。

そこで、自分が学んでいる中医学が非常に明快に答えを出してくれることがたくさんあり、また、対処法をも教えてくれるのです。

例えば先に述べた胃熱や心の熱など、これほど人に起こっている事象を、理論的に明確に説明できる医学は他にないと思います。

古くて新しい中医学と、古き良き時代の育児の再生である西原式育児と、共通する部分があるのは理にかなっているんですね。

ちなみに西原式育児で結果の出ない子どもたちに大きく共通するのが、薬害です。

それは子ども本人に投与された薬だけでなく、母体の、妊娠中や出産時、さらには子どもができるずっと前に服用していたホルモン剤など、多岐に渡ります。

それもきちんと中医では説明できますし、量子医学でも確認済みです。

まさに薬はリスク、安易に薬剤を使った出産や不妊治療などは、もちろん命を守るための苦渋の選択は除いて(それでも子どもへのリスクと現在地は認める覚悟で)、よくよく考えて選択するべきである、とあえて炎上覚悟で触れておきます。

 

折しも先日、西原先生の運営する「西原研究所」が、先生のご健康を理由に、閉鎖になってしまいました。

非常に残念です。

このタイミングで、長年温めていた、私と「むしろ台所診療所」の河口あすかが中心となって運営する、西原式育児を中心とした有料サイト・「アンテナ」をついに公開しました。(一般公開は11月から)、

研究所が閉鎖になってしまった今、この育児を伝承していける人材は、これだけの経験と知識を蓄えた私たちしかいない、と自負しています。

西原式育児をやってみよう、やっているのに結果が出ない、周りに同じ育児法の人がいなくて不安、など、育児で迷える子羊になってるお母さん方の、大きな味方になり得ます。

私たちは、西原式育児はもちろん、中医学の観点から、さらには量子医学の観点からも共に考え、最良の道を選択するお手伝いができると思ってます。

気になる方は是非、お問い合わせください。

 

今回、かなーり真面目な文になってしまいましたね〜

どうしよ、最後、おちゃらけたほうがよい?

そうね。

男子6人だけの長男クラスに、初の女子が転校してきたんですよ!

もうね、あれやらこれやら、少女マンガ的脳内展開で大変なんですよ、保護者が!w

 

私:「ねえねえ、今日、転校生来たんでしょ?初・女子!!」
長男:「うん、来たよ」
私:「どんな子だった?(ワクワク✨)」
長男:「下品な子だったよ」
私:「は?下品?」
長男:「うん、あのね、ソーセージはち○んこで、ミートボールは金玉だって言ってたよ」
私:「……まあ、男の子6人の中に入ってくる子だからね……」

 

色々崩れた。