あなたがあなたのままでいるために~「通級」という最先端システム利用のススメ~

どもです。

春になり、うちの次男様も晴れて小学校へ入学しました。

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毎日の送り迎えと弁当作りから解放された日。

無事に自走式に進化しました。

この笑顔。幼稚園3年間バスに乗って一度も手を振ったりとかしたことなかったのに~

なんというかこの人、学校に行きたかったんですよね。

2歳の頃からお兄ちゃんのPTAで学校へ連れてってたから、幼稚園は「こんなはずじゃなかった」場所だったのかも。

お兄ちゃんに憧れる、二人目あるあるかしらね。

 

長男が入学した時は1年生は5人だけという、ミニマムだった彼の幼稚園よりさらにミニマムになるという衝撃でしたが、同じ学校に入っているのに今年の次男のクラスは16人もいます。多い!去年の1年生なんかたった4人だったのに!

と思っていたら、保護者会でアンテナを張るにジモティはさほど多くなく、学区外から来ている人がわりと多い。

お話ししてみたら、やはり「少人数がいい」と選んでくる人が多く、もっと言えば都内小学校口コミランキングの上位になぜかうちの学校が入っているらしく、それで今年の人数が増えたようなんです。なんとそんなことが!

ただ、増えるとその「少人数」でなくなってしまうのでそこはナイショ。こんなところで書いといてなんですがw

そんなわけで5人でスタートした長男のクラスに転校生がどんどんやってきて、5年生になった今では11人にまで増えました。

5人がスタンダードの長男にとっては教室が大変窮屈らしく、事あるごとに狭い狭いと文句を言っております。

そんなん言ったらあの空間に40人で過ごした私の小学生時代はどうなっちゃうんだって暴れそうになりますがw、彼の主張を聞いていると日本でスタンダードな公立学校の教室サイズにはせいぜい10人くらいが人間的空間なんじゃないかと思います。ナチュラルソーシャルディスタンスね。

 

入学ほどなくして7歳の誕生日も迎えた次男様。

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大失敗ケーキの前で…

学校生活も思ったより順調な滑り出しです。

入学3日目にしてケンカをし、ちゃんと「何が嫌だったのか」自分で言え、学童でもお友達と大変上手に遊べている。

昨日お迎えに行ったらサッカーのゴールキーパーをしていたので、「君を若島津と呼ぼう」とつい口が滑ったらそこにいた指導員(女性)からすかさず、「私は日向小次郎派でした!」とツッコミが入り、うっかり腐海のワナに落ちそうになりましたよと。色々と過去の悪行がバレるからこんなところで盛り上がってはイケナイw

 

何度か触れてますが、次男が通った幼稚園は、「療育」に大変力を入れている幼稚園です。

明星大学の星山教授という、この道の専門家と繋がり、星山ゼミの学生の研究園になっていたり、星山先生が定期的に行われている親向け講座を受けている保護者もたくさんいます。

https://hoshiyama-lab.com/hoshiyama/

この星山先生の教えを多くの保護者が学んでいるので、保育中に我が子にサポーターをつけることも普通に行われています。

園内療育もスタートし、うちの次男様もお世話になりました。

保育の間に園の中ですんでしまうのでとても便利だし、担任の先生や園と情報を共有して頂けるので園外の療育に通うよりずっとスムーズで効果が高いです。ありがたや~

その流れで。

うちの園の出身者は、小学校へ上がるとわりと簡単に「通級」を利用します。

ある学校では、新入生全員うちの園出身者で、全員仲良く手をつないで通級に行く、という光景もw

 

そもそも「療育」とか「通級」ってなんぞや、という疑問が沸きますが。

例に漏れず私もよくわからなかったひとり。

一昔前までは、学校の授業についていけないような、特殊で「発達のゆっくりな子」が利用する場、として捉えられていました。もしかしたら今でもそういう先入観が普通なんじゃないかな。

私もそうでした。うちの子は普通!私は普通に産んだの!「あそこ」に行く子じゃないの!…的な。大変な偏見ですねすみません懺悔します~( ノД`)

いじめ問題のハシリで競争社会MAXでぶっちぎりの偏差値世代ですからね、私にそんな観念があるのも致仕方なし。

 

たくさんの人が、特にコロナ以降「時代が変わった」空気を感じていると思います。

実際去年から小学校の学習指導要領が変わり、中学校も今年から変わりました。

今までの、「暗記」「横並び一律」教育から、「個」を重視した教育に変わり、求められるものもガラリと変わったので子どもたちは大変、と中学生の子どもを持っている地元の事情に詳しいママ友に聞きました。

高校の偏差値の乱高下も激しく、保護者の選択基準は「個を大切にする教育をしてくれているかどうか」、決して有名大学にどれだけ入ったかを見ているのではないところが、本当に時代は変わったんだな、私も自分の観念を見直す必要があるな、と強く感じます。

これからの教育には、私たち親は何を求めていったらいいんでしょう?

うちの園の先生が放った、

「子どもに『上手にやらせること』なんて、至極簡単だ」

という言葉が、とても印象に残っています。

なぜなら、私も長男を育てるときは従来の価値観で「上手にできる子」狙いでしたから、刺さったんですね~

 

療育や通級では、何をするのでしょう。

幼稚園の療育では、担当の先生と1対1で、ゲームをしたり迷路をしたり、主に机上で、ただ遊ぶだけ。楽しいので、子どもたちも喜んでお部屋へ行きます。

そこでその子の特徴をつかみ、その子の「困り感」について支援していく、というもの。

うちの次男様は、家での様子と幼稚園での様子が全く違い、家では彼らしく過ごせているものの園へ行くとだんまりになったり集団で動くことを嫌がったりしていたので、その辺でお世話になることにしました。

これ、「頭のよい子」によく起こることで、親サイドからは見逃すことが多いことです。

特に大好きなお母さんやお父さんの前で「がんばってしまう」、友達の前で「演じてしまう」子は、そのまま見過ごされると自分らしく生きられないことに限界を感じ、思春期以降そんな自分に疲れ果ててしまうことも起こり得ます。

私はこの園にお世話になったからこそ早いうちに対処できたので、とても感謝しています。

1年行って、ずいぶん家と外の彼が一致してきました。

どの場面でも「彼らしく」自然に行動できていることが良く見て取れます。からの、入学3日目でのケンカだったりするんですがw

週に1回、1年程度なのに療育の効果には目を見張るものがあります。

療育といっても様々でしょうから(他を知らない)、うちの園の場合は「星山先生効果」なのかもしれないですけども。

 

「満月理論」というものがあります。

親や教育施設は、どうしても「育てる」「教える」という視点から、子どもに「欠けているもの」を探す、つまりジャッジをしがちです。

しかし、人は本来、どの人も、全く欠けているところはありません。

ただ見ている人が「問題」と見るから、問題に感じているに過ぎません。

欠けてないなんて、問題がないなんて、そんなことが!と思うかもしれませんが、私たちひとりひとりは、過去にも未来にも現在のどの位置にも決して同じ人はひとりといない、本当に唯一無二の貴重な存在です。

そんな貴重な存在の私たちが、誰かと比べて勝っているとか劣っているとか、親や先生に認められないと価値がないとか自分らしくいられないとか本当に必要のない観念だし、私たちが「問題」と感じる行動や病気などにも、そんな完璧な私たちがこの世に存在する目的のためにすべて意味があって起こしていることです。

 

欠けている、という視点で人を見ると、その人をジャッジするという視点でしかコミュニケーションをとれないので、その人の「話を聞く」ということができません。

そもそも欠けてない「人」を勝手な価値観でジャッジするのだから、そこに育つのは、自己否定だけです。

子どもに限らず大人も、自分の話を十分に聞いてもらった経験がある人はほとんどいません。

聞いてもらえない、わかってもらえない、が、自分を受け入れてもらえない、自分が人として存在できない、人を空間を社会を信用できない、につながっていく。

人としてこじらす元凶になったりする。

夫婦ゲンカもだいたいは「話が通じない」が原因。

子どもだけでなく、親も、おじいちゃんもおばあちゃんも、そのまたおじいちゃんもおばあちゃんも、先祖代々、「私の話を聞いてもらったことがない」のです。

「聞いてもらえなかった」亡霊が、子々孫々濃縮されて、現代の教育虐待やネグレクトにつながっている、と言っても過言ではありません。

「ただ話を聞いてもらう」だけのセラピーがあるくらい、人は「話を聞いてもらう」経験に飢えている。

「みんな違ってみんないい」は、全ての人々が求めている、自己容認なのです。

 

じゃあ話を十分に聞いてもらうとどうなるかというと。

空間への信頼が生まれます。

空間を信頼できると、自分を表現することができる。

つまりこれが自己信頼につながっていきます。

まさに、次男を見ていると思うことで、療育でただ遊んでいるだけのように見えて、親でない他人の「大人」に十分に受け入れてもらう経験を積み重ねていくことで、社会に対する信頼が生まれ、外でも自己表現ができるようになった。

だから小学校へ行っても、彼は空間への信頼があったので、何が嫌だったのか、をはっきり言うことができたんですね。

これができないとどうなるかというと。

「妄想」が得意になりますw

あの人がああ思っているんじゃないか、自分はこう思われているんじゃないか、という妄想から勝手に自己完結し、自分が勝手に生み出したものだけを信頼してしまいます。

そして勝手に「拒絶」という自己イメージを作りだし、拒絶を拒絶してさらに妄想膨らんで人当たりの良い自分を演じていく、そうです。

わーこれ全く自分に思い当たりがあり過ぎて( ノД`)、小学校から中学校丸5年間イジメにあった私の、このキョーレツな妄想癖はそこからきていたのかーーーーー的な。

 

そんなわけで思ったより順調な小学校生活を送っている次男様、これは小学校での通級は要らなくねえか?とも思ったんですが。

1年生から通級利用なんて他に誰もいないので、学校側はずいぶん色々準備してくださっていたようで、校長先生以下たくさんの先生たちからのさりげない見守りがあり、おトク感ハンパないです。

校庭に出てただ一列に並ぶ、という行為も、「誰かより速く並ぶ」という競争感を持たない次男は、昇降口から人がはけてからゆっくり靴を履き、みんなが並んでいるのを見渡してから、重役ペースで自分の所定位置にハマるw

そんな時彼はまさに満月理論で見ていただけているので、「ちゃんとやることはわかっているんだよね」と、彼のペースを尊重してもらえるのです。

これが「出来るのが当然」という視点だと、「早くできない」という欠陥でしか捉えられず、次男も期待に応えなくはならない抑圧で学校生活そのものが楽しくなくなることもあったでしょう。

私の住んでいる市では、療育関係の先生たちはわりと星山先生の講義を受けているそうで、共通認識があるのもスムーズに進む理由かな、とも思います。

「みんな違ってみんないい」

これを絵に描いた餅にしないためには、療育や通級を発達に心配のある特定の人だけを隔離するような位置づけでなく、全ての子どもが自分らしくいられるために子どもの話を十分に聞いて存在を受け入れる場として積極的に活用していくことが、これからの個の時代に必要とされるのではないでしょうか。

長男のように1クラス5人とかだとそもそも必要ないかもですがw

私もね、ずっと40人のマンモスクラスで横並びで育ちましたから、子どもの頃にそんな対応されていたら人生違ったのかもな、とちらっと思ったりもします。

子どもだって毎日色んなことが起こっているのに大人数の中で頑張ってへとへとになっている。

週に1回くらい息抜きして全存在をまるっと認められる時間を取ったっていいじゃないですか。

そうやって受け入れられた時間を充電にしてまた、元気に教室に戻っていける。

なぜか子どもは風の子的万能な扱いになってる風潮がありますが、子どもだって打ち出の小づちじゃないからねえ、大人と同じように悩みもすれば息切れもする。

人生で息切れしない自分のペースをつかむにも、療育や通級は大変有効ですね。

 

次男に関しては1,2年やってみて、軌道に乗っているようなら外していってもいいかなと思います。

だいたいは中高学年になってこじらせてから入ってくる子が多い。

「頭のいい子」ほど弱みを見せず頑張り過ぎて動けなくなってしまう可能性もあるので、「うちの子はそんなところに行くような子じゃないの!」という観念は外して、せっかくあるこの最先端無料システムを上手に利用する人が増えるといいな、と思います。

 

「子どもに『上手にやらせること』なんて、至極簡単だ」

上手にできることももちろん大事だけども、それよりも、生涯にわたり彼が彼として存在できて人生を楽しめるお手伝いができる幼少時代を送らせることができたらいいなと、日本の公立学校でもそういう教育も選択できるんだということを、広く知ってもらえるとうれしいです。

 

まあ今のところうちの男子どもは口を開けばうんこちんこうんこちんこ言ってて、こちらの影の努力が報われる気配もないんですけどね。

これいつ終わるのかな…終わらないのかなやっぱ……

 

次男劇の会と、長男1/2成人式と、次男卒園

皆さまおはこんばんちはです♡

いかがお過ごしでしょうか。

めっきり春めいてきて、うちのビオトープのメダカさんも動きまわり始めました。

冬の間は寒かったので動かず、ご飯も食べず、体もキュッと締まったお魚さんになり。動かないと食べないとはお魚さんは優秀ですね。反省。

魚類は変温動物なので寒いと動かなくなるけど、我々人間は恒温動物なので、どんなに寒くても体温を上げていこうする生き物。

だから身体が冷えると基礎体温まで体温を上げようと体力を消耗します。海でおぼれる人はこういう理由で体力が尽きておぼれるのよね。泳ぎが云々じゃなくて。

ここに「頼むから寒い恰好はするなあああ!!!」の根本的生物学的物理学的理由があるのでございますよ。

西原先生方式で全て口に入るものを42度まで上げて食すると、相当温存されて体を作る力に体力を回せるので、不妊の人は子どもを作る力も出るし子どもの不具合もなくなるし、アラフィフお母ちゃんのアンチエイジングになりますわよ。

お試しあれ~♡

 

長男10歳、次男6歳。

色々節目の行事が入れ食い状態の春です。

このコロナ禍で制限されつつもなんとか工夫しつつ最大限にやってあげたいという学校や幼稚園関係者の気持ちがビンビンに伝わってきて、本当にありがたいです(´;ω;`)

特に次男は年長で、3年やってきた成果刈り取りのとってもとっても大事な時期。

みんなの成長がこの年長最後の「劇の会」に集約されるので、どんなにミッションインポッシブルでもやり遂げるぜという園長の気合と決断が素晴らしいw

 

長男の幼稚園の時は行事らしい行事はほとんどなかったので、運動会はともかく作品展とか劇とか、必要?と最初はあまりピンときていませんでした。

確かに保護者に見せる「先生方の成果発表会」ならその時間もったいないから子ども外で遊ばせてくれと思うでしょうが、うちの幼稚園での行事は子どもの成長のための大事な大事なキッカケ作り。

そこまでやる?と保護者全員が感動するくらいひとりひとりにとことん寄り添い、子ども自らが「できた!超えた!」という気持ちを創っていくことに徹底してフォーカスしています。

だから地味だし、見た目「よくできた」劇ではないけども、ひとりひとりが成長した姿に母ども号泣で化粧流れてアラフォーのお顔が大変なことにw←平均年齢割と高めww

 

うちの地味男の次男様、年中さんの劇の時は、「やらない」の一点張り。

とにかく絶対やらない、やらない、やらない、で、本番一週間前にクラスの子が、ひとりでは恥ずかしくてできないから手伝ってくれないか、と言われ、それでも2日考えて、それならやってもいい、と、「ゆーりが承諾した!!」とお便りが回ったほどw

そこまで待ったもらったことに実は大きな大きな意味がある、と今になって知るんですが、そんだけゴネて彼がやったのは、ミミズに見立てた毛糸を咥えて右から左に走り抜けるフクロウさんの役、という、どこを見ていいか全くわからなかった年中の劇の思い出w

なのでね、芝居の内容もやる場所も環境もずっとレベルアップする年長の劇にうちの子が出るはずはないだろう、と、もう裏方でいいじゃないか、と、音響とかライトとかうちの子きっと役者というより監督タイプなのよと腹を括っていたのですが(実際どうしても出たくない子にはそういう任務が与えられます)。

なのに今年はなんと、最初からやるつもりになっている(゚д゚)

そしてなぜか最初から「村人役」チョイス。

もちろん主役ではなく、みんなで石を掘って石垣を積み上げるという地味~な役。

アレか、セリフのないその他大勢に紛れてとりあえず参加した感出してお茶を濁すつもりだな、と思っていたら。

その村人役にクッソ本気なんですよ!!

めっちゃリアルに鍬を振り、豆絞りで汗をふきふき、紙の岩をとんでもなく重そうに運ぶ!!

おマエ村人の劇団四季!!

そこに園長からのお手紙がささやく。

「子どもに役の上下はない」

目からウロコがポロンポロン。

そうか、彼は村人を、やりたくてやっていたのか。

「地味な役」と思っていたのは私で、主役を張ったりセリフの多い役をやることが「いいこと」だと、「良くできた子ども」で「他の子どもに勝っている」と思い込んでいたのは私で。

「先生の成果発表の劇なんてフン」と思っていた私の思考が一番、成果発表を期待していたんだな、と、愕然としました。

彼には、主役を張って目立ちたいとか、セリフをたくさんしゃべって高評価を得たいとか、そういうヨコシマな気持ちは微塵もなく、ただ自分がやりたくてこのチョイスだったから、ここまで真剣になりきれた。

他の子どもたちも、みんなで劇を作るということにひとりひとりが自主的にフォーカスしているので、どんな役も重要で、みんながひとりひとりに真剣にフィードバックしている。

役を決めるときも、やりたい子が複数出ると自主的にオーディションをします。

いつもは身体も声も小さい女の子が、どうしてもやりたい役に立候補し、オーディションしたら、「そんなに声が出るの!」というくらいすごい演技だった。

でも本人はそう言われてもキョトンとしていたそうです。

そのくらい人の「やりたい」という気持ちと「決める」という気持ちには、計り知れない力がある。

そこを引き出すために、先生たちが色んなタイプの子に徹底して寄り添う。。

みんながカオスになって劇の練習をしている隅っこの机でひとり迷路かなんかをやっていたうちの息子に先生が、「あれわけわかんないんだけど何やってるか教えて」と言ったら、めっちゃ詳細に状況説明したそうで、見てないふり参加してないふりして実は誰よりも前のめりで参加していた、次男。

こういう子もいるんですよ~と例に上がってたw

途中でいなくなっちゃうタイプの子には、とっとと覚えちゃって何度も同じことをやることが苦痛でいなくなったり、入り込み過ぎて疲れちゃうから自主的に避難したりと、言葉を発さないだけで個々の子どもには色んな理由がある。

それをただ、「その場に最初から最後まで大人の望む形で参加するのが良い子ども」という価値観だけで押し込めると、子どもの個性を読み違う。

参加しない子、座っていない子、いなくなっちゃう子、みんなそれぞれに「肯定的理由」があって、そこを尊重してもらった思い出が、子どもを大きく成長させます。

 

細かく書いたけど、同じ理由で悩んでるお母さんがいたら是非心にとめておいてほしいと思いました。

あ、うちの子そんな感じ!と思ったら、順調に育ってる証かもw

 

だってね。

人には、内側の自分と外側の自分がいると思うんです。

「ホンネの自分」と「タテマエの自分」。

それ自体は普通のことで、良いも悪いもない。

どちらも同じだけ大事にできるか、が、人生が楽しいか楽しくないかのコツなんじゃないでしょうか。

何言われても「どっちでもいい」と人と合わせているのは、タテマエの自分だけ大きくなりすぎて本当にやりたい人生を歩めないですよね。

大人の都合の良い子どもを演じていると、「どっちでもいい」という発言ばかりになる子どもになる。

自分をあきらめてしまっている。

ただ座れる子どもを作るなんてとても簡単だけど、座りたくて座っているのか、座っていると褒められて評価が上がってお母さんが喜んでくれるから座っているのか、は、座っているという事象は同じでもどっちの自分を大切にしているか、という面で大きく違ってきます。

我々昭和の世代はただただ箱に押し込められてきた教育だったけど、これからの子どもたちには通用しないし社会も人に求める部分が大きく変わってきているので、自分をあきらめてしまった人材自体が通用しなくなるんだろうな、と感じてます。

 

「待ったもらったことに実は大きな大きな意味がある」

と先ほど書きましたが、これがどういう意味を持つかと言うと、

「自分で決めたことはやり遂げる」

という、人の特性の根幹に関わってくること、ということなんです。

だから、「決める」という力を育むことがとても大事になってくる。

決めるところまで待ってもらうと、どんだけ大人が悠々の時を感じようとも辛抱強く待ってもらうと、最後の最後で、人は自分の言葉で語りだす。

パパッと決められる人もいるけど、半分くらいは「周りを待たせているから」妥協が入ります。

うちの次男は年中でぐじゅぐじゅした分、ものすごく「決める」力がついてきたなあ、というのと、私も彼の本音を引き出す「コツ」をつかみました。

彼は靴を選ぶのも、とても時間がかかります。店員さんに一度ご退室願うくらいw

でも時間がかかるのは、彼なりに見た目と履き心地と走りやすさを熟考しているだけで、一度決めるともう他の靴には見向きもしません。

ただその靴を愛します。

大人である私は色んな事情からどうしてもせかしたくなるのですが、彼が「決める」ところまで待ってあげると、あとがとてもスムーズであることに気が付きました。

 

極めつけは。着物。

次男が劇で村人役をやったのにはもうひとつ、実は「着物が着たい」という気持ちがあったのです!こだわるところソコ!?って感じww

衣装合わせでワクワクしながら衣装を着たら、村人なんで、彼の予想に反してモンペだった。

彼にとっては「モンペは着物でない」という判断だったらしく、珍しく文句を言っていた。

一応と思って担任の先生に掛け合ったのですが、「いやあ村人はモンペじゃないと岩が運べないしねえ、ゆーりに言っとくわ」

劇の話はここは終わったのですが、それでも私が気になったので、

「ゆーり、着物が着たい?」

「うん、着たい」

「卒園式、着物着る?」

「うん、着る」

「言ったね?今言ったね?着るね?絶対着るね?言ったね?じゃあ言うけど、うちの園で着物着るのって他に誰もいないと思うよ、多分アンタ一人だよ、それでも着る?」

(ちょっとひるんで)

「うーん、どっちにしようかなあ、神様に聞いてみよう…、ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な、……着るって、出る」

「結局着たいのかw、じゃあ予約するぞわかったね?」

 

というやり取りからの、コレ↓

 

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 見事にやり切りました。

彼は見事に、「自分で決めた」ことに対して、やり切りました。

そして私も、彼の本音が出るまで、ここまで待つことができました。

私にとってこれほど感慨深い着物はないんですよ~!!(´;ω;`)

(大人からしたら結構なくだらないレベルの話だけど)この着物姿は3年間の集大成、色んなことが報われた、この瞬間でした。

卒園に着物は長男も着たけど、アレは私が「着せた」、だから長男は「ママが着るなら着る」と条件を出した。

あのころはそんなことも考えもしなかったからねえ。

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 このころ絶賛授乳中で、どうやって着物で授乳するかで盛り上がった思い出がw(正式には身八つ口というウワサ…よっぽど巨乳か伸びる乳首か志村けんじゃないと無理な気がする)

 

人は自分で決めると、自分の行動に責任を持ちます。

どんな小さなことでも人に決められたことをやることは、抑圧になる。

だから他人軸になり人の評価ばかりが気になり、自分の人生を歩みにくくなる。ああ耳が痛い…( ノД`)

だから折あるごとに園では「決める力がついたかどうか」を見ている、と言われていたのか、と卒園近くになってようやく気づきました。

子どもひとりひとりの決める力を引き出すために、最大限のサポートをする。

次男は、100人近くいる卒園生の中でたったひとりになろうと、自分のやりたかったことはやり切ることができた。(結果的にはうちの子含めて袴姿が5人もいたんだけど…流行ってんの?)

自分で決めることができた。

これから先小学校へ行って、想定できないような色んなことが起こるでしょうが、この「決める力」を持っていれば、どこへでもやっていけそう、という自信があります。

子育ては色んな悩みが尽きないことが普通のことだと思います。

この子はどうしたらいいのか、どうなっちゃうのか、親の心配は尽きないでしょう。

そんな時、「私たちの役割は、子どもが自分で決められる力をつけることだけだ」というところだけにフォーカスすると、子育ても迷子になることが少なくなるんじゃないかな、とこの園に3年間お世話になって感じたことです。

そして、親や大人の都合に合わせるのでなく、子どもの決めるところを待ってあげられる社会が実現すると、いいですね。

 

長男の1/2成人式も、子どもたちがやりたいことをできるだけ実現させてくれた式でした。

子どもたちが自分で企画進行し、自分たちの言葉で語り、みんなで作り込んだ、気持ちがたくさん伝わってくる素晴らしい式でした。

休み時間も自発的にずっと話し合ったり楽器の練習をしたり、先生方もこの状況で開催の決断そのものが大変だったろうに、子どもたちに任せここまで見守ってくださって本当に感謝です。

保護者と子どもの間でお手紙の交換したり、決意の言葉を述べたり、みんな精一杯頑張っていて、ここまで大きくなったんだなあと感慨深いです。

子どもたちが大好きなお父さんお母さんに喜んでもらいたい、という姿がたくさん伝わってきて、やっぱりぼろ泣き~

1/2成人式って言い得て妙だなあ、ちょうど10歳って、方向性が変わっていく節目なんでしょうね。私の子どもの頃はなかったから羨ましい。いつの時代ってツッコミはなしでね?

今までの子どもたちの世界でのベクトルは親でした。彼らにとっての社会=家族だったから。

この目がいよいよ社会に向いていく。ここまで十分に家庭で存在を認めてもらった子どもたちは、その自信をバックボーンにまっすぐに社会へ目を向けていけるでしょう。

これからはお父さんお母さんが大好きと言う気持ちをそのまま、社会に向けてほしいなと思い、以下の言葉を送りました。

 

「恩送り」という言葉があります。

良いことをされた時その人に「恩返し」をしないと、と思うと、世界が広がっていきづらいですが、その気持ちを是非、他の人に送るという「恩送り」をしてください。

お父さんお母さんに返そうとするのではなく、これから関わる全ての人達に送ってください。

そうして、住みやすいステキな社会を自ら創っていってください。(めっちゃ要約)

 

 これから大きく変革していく社会に生きる子どもたち。

自分たちの力で思いやりにあふれた社会を創っていってほしい。自分のことは大棚にあげますけど…

 

 

最後に、

次男卒園アルバムに書いた、寄せ書き。

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今だけを生きる彼らしい発言だなあと思いましたw

さあ~次は小学校だ!

まだまだネタは満載だ~!

 

ではまた次回~

いじめって何?~コミュニケーション能力を鍛える~

遅ればせながらあけましておめでとうございます。

今年のお正月はどこも行かずにお家で過ごした、というお宅は多いんではないでしょうか。

うちも例に漏れずでこんなに出かけない正月は何年ぶり?何十年ぶり??

去年の年末年始は、長男はダンナ実家へ次男は私の実家へ奉公に出したので久しぶりに家の中に子どもが不在で、あのね、子どもがいないとね、家の中が散らからないんですよ!

私が片付けた、まんまの姿で部屋の中が何日も変わらないの!

散らかす人がいないんだから当然といえば当然なんだけど、そんな当たり前の物理の法則すらすっ飛ぶほど、子ども2人の破壊力は強烈なわけですよ~

そして、去年ラクをした分だけ、どこいかず子どもフル出場な今年の正月の破壊力は倍率ドン。

それでなくてもヒマさえあれば段ボール工作している兄弟、色々すっかりあきらめたので正月の記憶がすでに消えてますわ私。

何してたんだっけか?

そうそう年賀状と、消しゴムハンコを作ったわw

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いやね、長男の冬休みの宿題が消しゴムハンコを作る、で、なんだよその楽しそうな宿題昭和はそんなエンタな要素のある宿題なんか出たことなかったぞと対抗心がフツフツ沸きまして、次男のためという名目で母が創作意欲を消化させていただきましたよと。次男大喜びw

 

入学当初5人で始まった長男のクラスですが、なぜか順調に転校生が増え続け、今やなんと10人になりました!

プロパー数の2倍になるって何気にすごい。

本人たちは、最初は「人数増える!」って喜んでいたものの、だんだん「このくらいでもういいよ」モードに。良い経験をしてますなあw

要するにあの、日本で一般的な教室のサイズでの上限人数は、10人ってことなんだろう。ナチュラルソーシャルディスタンスw

そりゃね、何事もスペースに見合った「人数」というものがあると思うのよね。

うちのザリガニのザリジェット君だって、ハウスに見合った大きさにしか脱皮しない。水槽のサイズアップすると急に脱皮すんのw

椅子が入るだけ箱いっぱいすし詰めにすりゃ効率的かと言ったら、満員電車と一緒でストレスも軋轢も爆上がりするから返って悪くなる。

もうそろそろこんな昭和なやり方は終焉して良いんだろうなあ。

 

というわけで当初は男子ばかり5人だったのに、いまや女の子も4人に増え、なんと長男に彼女ができました。

告白されて、付き合うことになった日、帰ってきて開口一番、

「パパ、告白って何?付き合うって何?」

意味わからず承諾したんかいお前~💢

しかし放課後公園で一緒に遊んだあとはおうちまで送っていき、その時彼女のカバンを持ってあげているそうで、そんなこと1ミリも教えてないのに、なんなら私のカバンだって持ったことないのに、お前のどこの潜在意識に入っているんだそのデータは。

 

狙ってここまで少人数な学校に入れたわけではないのですが、結果的に少人数でよかったな、と思ってます。

最初男の子ばかり5人でスタートした長男のクラスですが、5人の中でしっかり信頼関係を築いた後、少しずつ転校生が増えたので、ひとりひとりとじっくり関係性を築くことができた。

転校してくる子たちは明らかに「カラーの違う子」たちなのですが、一つの価値観で撥ねたり仲間に入れたり、ということではなく、クラス全体でその子そのものをまるっと受け入れるので、転校してきた子もなんというか「浄化」される気がするのですね。

考えてもみて、自分が若干6歳や7歳で誰も知らない人ばかり40人もいる環境に突然入って、「みんなと仲良くしましょう」的なプレッシャーをかけられたら、どうやって集団の中で自分を位置づけ40人とうまくやっていくんでしょう?

大人だってめちゃくちゃ高度な政治力を求められると思いますよ。私無理だったのでこの人生の歩み方だったりするんですがw

そんな難しいところで一日の大半を過ごし親の期待を裏切るまいと子どもなりに一生懸命頑張ってきた子が転校してくると、新しいクラスでどうやって自分を受け入れてもらうか、自分の活路を見出すかと、色んなことをするんですね。わーおばちゃんその気持ちわかるわ~私は一度しか転校してないけどあれすごいプレッシャーだったなあ~転校が多かった人は本当に大変だったんだろうなと想像にかたくない…。

でも、受け入れられようと頑張らなくても、クラス全体にまるっと受け入れてもらえると感じていくと、だんだん落ち着いてくる。

自分は自分のままでいいんだな、と、クラスというパズルのピースのひとつにちゃんとなっていくんですよね。

そんなパズルにずっとハマってこなかった自分にとっては大変羨ましい環境でございますよw

 

でもここに至るまでにはやっぱり彼らなりの紆余曲折を通ってきていて。

それなりにトラブルもあるんですが、ちゃんと超えてお互いの凸凹を認め合っているんですね。

私は長男の友達への向き合い方に感動すら覚えていて。

彼には大好きな同級生がいます。あ、男の子ね。

ある日ちょっとした勘違いによるトラブルがあり、先生に呼び出されてこっぴどく怒られてしまいました。

「ボクは話が大きくなるのが嫌なんだ」

と、子どもの関係に大人が出てくるのを最も嫌う息子は「もう〇〇君とは深く付き合うのはやめる」宣言をしました。

と思ったら翌日夕飯を食べながら、

「やっぱり僕は〇〇君が大好きだから、もっと深くつながりたいんだ」と、いや私だってこれだけ生きてきて人生で一度も発したことないというかっこいいセリフを吐きやがり。

次に別案件で問題が起きたとき、「大人に言わないで僕たちで解決しようよ、そうすると成長するよ」とのたまったらしい。

〇〇君も長男のことが大好きで、いつも長男のことを気にかけてくれているイケメン野郎なので、その言葉もちゃんと心で受け取り、それからは何かがあってもまずお互いで解決策を話し合うようになったそうです。

ええ話やあ~と親バカ全開ですみません。

でもね、こんなコミュニケーションが取れたら、そもそもイジメってなに?って話になりません?

 

市の教育委員会からこんなアンケートが配られたことがあります。

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 長男の夏休み宿題なんですよこれ。

普段プリントものはほどんど目を通さない放置親ですが、「保護者から一言」書く欄があるから見ざるを得ず。

もうね、長男が書いた答えが明らかに

「こう書いておきゃ文句言われずに通るだろ」

文なわけ。

教えられたとおりの聞こえの良い美辞麗句並べてるだけだから、文法がめちゃくちゃ。

こんなもん先生はダマせても親はダマせません。

 

「言いたいことはわかるんだけど話がつながってないからさ、もう一回自分の頭で考えて書きなよ。本当にこう思っているんでしょ?」

「…うん」

「別に内容変えろって言ってるわけじゃないんだって、話が通じるように書き直せばって話よ」

「…うん」

消しゴムで消しても、鉛筆進まず。

「だってさ、これ、何回読んでもなんて書いてあるのかわからないんだよ!『どうすれば誰かに話ができるだろう』ってどういうことなんだよ!?」

おお、君、よくそこに気づいた。さすがだね。

「どうすれば、誰かがいじめられていることを誰かに話せるの?」

「…勇気を持つこと?(←模範回答)」

「じゃあそう書けば?」

「…うん」

「誰が?誰が勇気を持つの?」

「……、僕?」

「そう思うんならそう書きなさい」

というわけでこの、取って付けたような回答になったんですがw

 

そう、わざとなのかそうでないのかこのリーフレットは、「誰が」という主語が、わりとあやふやなんですよ。

長男は幼稚園で、トラブルが発生した時大人を頼らず自分たちで解決することを訓練しているので、『どうすれば誰かに話ができるだろう』などというこの主語のないお題の意味が、本気で何を言っているかわからないんですね。

「いじめを見たときは大人に言え」とは、先生たちが命がなくなるような事態を真剣に避けようとしてくださっているのはとてもわかるのですが、あまり根本的解決にはならないように感じます。

私子どもの頃いじめられっ子最前線だったからわかるけど、大人に言うと問題って地下に潜っちゃってこじらせちゃうんだよね。

いわゆる「チクる」ってやつ。

「自分の言い分を聞いてくれない」は、いじめっ子もいじめられっ子も思ってるわけですから、一方の見方だけで悪者にされるんであれば、当然承服できず矛先はさらに鋭くいじめられっ子に刺さっていきます。

いじめをゆるさない、がすなわち大人に報告しなさい、では、どちらも解決策を自分の頭で考えることをやめてしまいます。

子どもの社会は大人の社会の縮図であるならば、いじめ問題が発生したのなら、大人も、大人自らが自分と向き合うきっかけになります。

この場合の本当の主語である「誰が」は、大人である私たち。

つまりリライトすれば、

「大人がどうすれば、子どもは誰かに話ができるだろう」

ですね。ほら、すっきり入るでしょう?w

 

というわけで、文句ババアから一言。

「『私は私のままでいい』『あなたはあなたのままでいい』ということを全ての人が受け入れられれば、いじめはなくなりますね。自分を信用し、仲間を信用し、勇気を持つ。自分や人のありのままを認め合える、そういう社会や教育であってほしいと願います。」

 

自分の属する集団を信用して、ありのままをさらけだせるかどうか。

クラスという集団を信用できている長男のクラスでは、だからありのままを受け入れ合うことができる。

つまり、傷ついた仲間を癒せるのは、仲間だけなんですよね。

親や先生じゃない。

これが「大人を頼らない」という本当の意味なんだと思うんです。

次男の幼稚園もそこをわかっているので、徹底して訓練しています。

お受験でも早期教育でもなく、これが幼少期という一番大事な時に一番訓練すべきことだし、幼少期にやれておけばあとは勝手に自走してくれると、10歳まで育ってこうやって芽吹いてきた長男を見ると思うのですよ。

 

認め合うということは、固定の「こうあらねばならない」という価値観が薄いということ。

柔軟性があり、そこに競争意識は全くない。

対して先生という世代には、まだまだ「ねばならない」が強い。

しかし次世代の子どもたちにそんな競争は必要ないので私はむしろこのまま好きなことをして過ごしてほしいと思ってます。テストも通知表もいらねえ~

 

良く言われることですが、自分の真ん中と繋がっていれば、ブレることがありません。

自分の真ん中と繋がるということは、自分の好きなことを好きなだけする、ということです。

長男は放課後になるとうちの仕事場と隣の公園で、毎日真っ暗になるまで同級生と遊びます。(そのあと彼女を家まで送っていくんだけどさ、彼女のカバン持って←まだ言ってるw)

このくらいの年齢になるとイマドキはお習い事や塾で遊ぶ友達が減っていくそうですが、この子らはむしろ友達と遊びたいのでお習い事を減らすというw

友達とアホほど遊び、バターになるまで鬼ごっこをする、今この人たちに本当に必要なのはこういうことなんだなあと感じます。

将来へのアレコレは大人が勝手に後付けしたものに過ぎなくて。

人生は過去でも未来でもなく、今という瞬間の積み重ねだということを思い出させてくれます。

アホだからね、うちの仕事場でかくれんぼしてゴミ箱からガキが出てくるとか、宿題を公園の砂の上でやって真っ黒にしてるとか、ほんとこいつらアホですけどね?

 

春になったら、釣りが大好きな子どもらのピアノの先生に、船釣りに連れて行ってもらう約束をしています。

今までは次男がまだ小さかったので親同伴必須、しかしダンナも私も乗り物酔いが半端なく(私なんて電車ですら酔う)、船なんてとんでもないと敬遠してたんですが、大きくなったので子どもだけ連れてってくれるという有り難いお言葉♡

私のお友達のお子さんはずっと魚つりばかりしていて、大学はお魚研究室にいるそうです。さかなクン的なw

本当にしたいことをしているその先に、本当にしたいことをする人生が見えてくる。

別にうちの子たちにさかなクンになれとは言わないですが、そうやって人間は自然の一部であることを実感しながら日々を楽しんでいれば、おのずとやりたいことが見えてくるのでしょう。

そうやって仲間と繋がり自らを自然の一部であるということを忘れず心と体で対話をしていれば、狭い世界で小さなことで諍いが起こっても、自らの命を危うくすることもないと、思うんですよ。

 

 

自分と一致すること

おはこんばんちはです。コロナ風邪騒動の中、お元気でお過ごしでしょうか。

先日わたくし、生まれて初めてディズニーのチケットをネットで取ろうとトライしましたが、どんだけ張り付いてもアクセスすらかなわずあまりに歯が立たなくて世間の分厚さを体で実感しました。みんな根性すごいわ…私なんて足元にも及ばん。いくらババ孫コンビのためとはいえ、これ以上はムダにスマホ老眼を加速させるだけなので断念しました(´;ω;`)

行楽地にはいつもふらっと出かける我が家。

家出て現地着くのが夕方とかwなのでディズニーもアフターなんちゃら専門。

ところがこのコロナ騒動で色んな施設が軒並み予約制になっていることを全く学習せず毎度子どもらを泣かせているので、たまには予定のある行動をしようと心を入れ替えたら、コレ。

近くのプラネタリウムも予約制なの知らずに行ってたまたま空いていたので入れましたが、「3席空けて座ってください」と言われ、「ええ?四六時中顔を舐めまわしているような自分の子どもと、プラネタリウムに限って離れて座れと?!」と周りを見たらカップルも離れて座ってて、いちゃいちゃしにきたのにあら残念と思ってしまいましたとさw

 

そんなご時世の中ではありますが、次男幼稚園が無事に運動会を開催してくれました♡

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「密にならないよう」と綱引き競技が玉入れに変更になってましたけど、玉入れこそ我を忘れて密にならないかね?綱引きの方が少なくとも秩序が乱れることはないよね?と小一時間。まあそんなことはどうでもいいんですが。

もうね、特にうちの園では年長の運動会は3年間の集大成のひとつであり、醍醐味であります♡

子ども自身もそうですが、親も、わけもわからず自分の子の「出来る出来ない」だけ観覧していた年少時代とは違って、幼児教育とは何かがなんとなくわかってくるこの年長時期の運動会は、我が子のみならずクラスの子たちの成長ぶりに自分の子でもないのにみんなが涙するのですよ。

うちの園では、保護者に、数日前に行われる運動会の予行を観覧することを推奨してます。予行から本番のたった数日間に、子どもが大きく成長するからです。その数日で子どもたちの本気とか覚悟が決まるんだよね。

 

しばしば、次男のマイペースっぷりをここで吐露させてもらってますがw

わかりやすい長男と違ってマイペースな次男自身、はてどこまで運動会を楽しめるのか、若干(というかかなり)不安ではありました。

 

種目は、

・とびばこ

・荒馬

・リレー

の3つ。

 

の前に。

私には「開会式」という大きな関心ごとがあるw

開会式の準備体操として「できるかな体操」というのを全学年でやるんだけど、予行の時ひとり後ろを向いてふざけたりしてほとんどやらない人発見…うちの次男様だw

担任の先生いわく、「ゆーり君はこういうのがバカバカしくてやってられないんだよ」だそうで、そんな話を運動会直前の懇談会でシェアしたら、開会式のできるかな体操の時だけピンポイントに次男の注目度が上がってしまうというww

お前な~世の中というのはな~恥ずかしいからってやらないと返って目立つんだよ~~

おかあさんといっしょ」をちゃんと観せておけばよかったと今さら後悔…だって「だんごむし」って歌えばほぼ日本中の幼児が一斉に転がるじゃんw

でもシェアしたおかげで「私ゆーり君のそういう気持ちわかる~」「うちの子も実はそうだと思う、やってはいるけど」という本音の声も聞けたのでした。

まあね、母親の歩く道がずいぶんとナナメですから、子どもにまっすぐ歩けという方がおこがましいわな。

 

荒馬とは、青森の伝統芸能で、収穫の時働いてくれた馬に感謝する踊りだそうで、うちの園の伝統行事です。

毎年運動会で年長さんが披露し、終わると使った荒馬を年中さんに引き継ぐ儀式があります。

ほとんどの園児が年長の馬に憧れを持つ中、荒馬なんぞ全く箸にも棒にも掛けなかった次男様でしたが、今年はどういうわけか「今までの中で一番楽しい!」とのたまい、「荒馬やるよ~」の掛け声に誰よりも早く集まるハマりっぷり。

演技にも真剣で、「ゆうりターン」と呼ばれるほどかっこよく回ることにこだわっておりましたw意外にナルシストだったかww

 

どうしても目に見える成果が欲しい親としては、「出来ない」「やらない」と主張する我が子を持つとやきもきする場面ですが。

出来ない・やらない、を受け入れられて初めて、自分から出来る・自分からやる、気が起きるようになる。

年中の1年を通して「やらない」を貫かれ、結構悩んだ1年でしたが、そこで彼の「やらない」を尊重しみんなに認めてもらえたからこそ、年長の今ここで花開いたように思います。

やらない子の親はモヤモヤするけど、いずれやろうとする力を信じることが大事。

園からも「いずれやろうとする力を信じて」もらったからこそ、彼は今年の運動会は自発的に楽しめた。できるかな体操も強制されたりやらないことで問題視されなったのは本当に有り難いw←園によっては、だよね?こういうの~

一説によると、2012年以降に生まれた子どもには、クリスタルチルドレンと呼ばれる子どもがたくさんいるのだそうです。

詳しくはググるとでてきますけど、周囲に迎合しないというか今までの価値観とは合わないというか、そういう特徴の子どもたちなんだそうです。

多分うちの次男様それw徹底して忖度がないww

そういう子どもが従来の箱に収まるかというと、微妙だなあ。と今さら小学校が悩ましい…

 

自分に集中しているときの次男は素晴らしいんです。走っているときでも荒馬でも、体にピーンと一本柱が通ってるみたいにキリッとしている。

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先日、現役大学生に魚獲りを教えてもらいに川へ行ったのですが(こういうの私はあまり教えられないから、魚獲りで家庭教師を雇ってみたw)、ゆーりの腰の入り方が素晴らしいと大絶賛され。

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普段はくにゃくにゃなんですよこの人。私と買い物しているときとかご飯食べてる時とかめっちゃ気が抜けてて、しばしば怒られる。

普段は気が抜けているくせに、自分に集中しているときの彼は非常に姿勢が良い。

お 前 は 羽 生 結 弦 か っ て の 。

 

人間、自分に集中しているときって、雑念がないんですよね。こういうのを神がかっているというのかな。今風に言うと「神ってる」w←長男がどこから聞いてきたのか時々使うww

自分の中の「神」と繋がっている状態なんだろうね。

そういう時人は、体がまっすぐになる。体が歪まず、自分の体の正面で作業をしている。

周りの目や評価を気にしたり、「やらねばならない」概念で動くと、体が歪む。

最近中医学を学びながらも量子をちょこっと学び始めているのですが、余計な概念や感情など波動の低い部分を体から消していくと、この体の歪みがどんどんなくなっていくんですよ。

歪みがなくなっていくと、自分の中の神がでてきて、そこと繋がっていける。

子どもはそもそも繋がっているものだけど、この世で色々な体験をしているうちに、知らず知らずに体に闇が溜まって歪んでいってしまうんですね。
だから大人になると大抵の人は「ねばならない」にがんじがらめで身体が歪みまくっていて、様々な不調の原因になったりする。

自発的でなく、大人が課題を「やらせる」というのは、この「体を歪ませる」行為にあたると思うのです。

お母さんが望むから、先生が評価するから、周りの人がやるから、やる、これは全部「外側からの動機付け」ですよね。

人間というのは、やらされることはたとえどんな小さなことでも抑圧や強迫観念になってしまう生き物。

勉強やお片付けも、「勉強しないと〇〇になっちゃうよ」とか「片付けないとおもちゃ捨てるよ」とかいうよくある強迫的な「しつけ」は、全く解決にはならないどころか子どもを歪ませてしまうそうです。

部屋中を荒らされる男子の親としては発狂に堪えないことではありますがっ。

わかってはいても、本棚の本全部出して秘密基地作られたりするとね、とっさに模範回答とか無理ですから💢すみませんね未熟な親でさっっ

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この笑顔……

 

だから子どもには、できるだけ「やりたいことをやらせる」。

やりたいこと=自分の中の神とつながる、ということ。

やりたいことをやっている子どもは自分の中の神と繋がっているので、自分に集中している。

子育てのコツというのは、やりたいことをやらせる工夫が必要、に集約されるのかな。

そこを大事にしてくれる家庭教育であり幼児教育であり学校教育であるかどうか。

大人の都合をはみ出たとき「発達障害」と切り捨てたりしないかどうか。

ただし、じゃあやりたいことがテレビやゲームだからってそこを手放していいかというと、アレは人が「本当にやりたいこと」から切り離す意図のあるアイテムだと思うんです。

つまり人を自分軸で喜びや楽しいことで人生を歩かせることを阻んで、闇に結びつけるためのもの。

他者に人生を支配されちゃうんだよね。自分の車のハンドルを自分で握れなくなっちゃう。

友達のダンナさんが毎晩結構な量の酒を飲んで、具合悪いって昼過ぎまで寝ていたのが、最近酒を減らしたら体も調子よく、酒を買うために散財していたお金も浮いて趣味の熱帯魚グッズを嬉しそうに買ってくるようになったって、人生の主権を自分に取り戻したんだなあ、良かったねって素直に思いました。

アイテムがお酒に限らずこういうことってたくさんあるんだろうなあ。

 

「生きている以上何者かにならなくてはならない」

というのが、現代の貨幣経済を生きる私たちの、最大の強迫観念。

現代の社会も教育もすべてここから始まっていると言っても過言ではないでしょうが、それが本当に生きたい生き方なのかしら?

人生をお金に紐づけすることが、すべて悲劇のはじまりなような気がする。

好きなことを仕事にするっていうのは、自分の神性をお金に換算するということで、人によっては逆に抑圧にもなったり。

大人の目から見て「良くできた子ども」というのは、つまり、「その時の社会の価値観にばっちり合った子ども」という意味で、歴史を振り返ればそんな価値観ほど流動的なものはありません。

その時の価値観だけに無理せず合う子どもって本当に一握りで、問題がないと思われているような子どもの大半は、外側の評価を取り繕うためにがんばってしまう。

何年か後に価値観が変わっていったときには、本当の自分に還れずに疲弊するでしょう。

いずれ世界はお金の要らない世界に移行していくと確信していますが、お金のためでない本当の生き方を問われたとき、我々の子どもたちが「自分と繋がっている生き方ができているかどうか」は、今私たちが自分と繋がった生き方をしているかどうか、に集約され、明暗をわけていくんじゃないかなと感じます。

大人の、なんとかしてあげたい、なんとかせねば、という心配する気持ちはわかるし有り難いけど、子どもをそもそも信じて待ってほしい、と長男の担任の先生にこっそり思う今日この頃…w

 

なんてマニアックなことを考えながら観覧していた運動会でしたと。

なにが素晴らしいって、子どもたちは勝ち負けでなく、仲間と支え合い、個の違いを認め合いながら成長しているのがホントに良くわかるのですよ。

年長になると、「帰りの時間です」とマイクで放送するという権限が回ってくるのですが、ずっとマイクを前に話せなかった次男が、つい最近ちゃんと喋られるようになって、その時同じクラスの男の子がお迎えに来た私を見つけるなり走ってきて食い気味に「ゆーりがピンポンパンポンちゃんとしゃべれた!!」と自分のことのように報告してきてくれまして。

この子は一般的には療育に通うタイプの子なのですが、いつもまっすぐ友達と向き合って、良いことも悪いこともストレートにぶつけてくる、純粋な魂の男の子なのです。

何が良くてなにが悪いかなんて本当に、ない。

子どもたちには光そのままの魂で成長してほしいな、と願います。

 

そして汚れた大人である私wは、自分に集中する時間を作って浄化するべく、一円もカネにならない趣味を作ろうと思いましたww

せっかく生まれてきたんだし。子どものように人生を楽しもう~~

 

 

 

 

うちの次男が素晴らしいと思う件その3

先月、長男がめでたく10歳になりました。

10年!

ひり出して10年ってか!早いようなそうでもないような~

 

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この数字ケーキは彼が1歳の誕生日から毎年続けて作っております。

今年から2ケタということでどないしようと頭抱えておりましたが、スフレパンケーキのレシピを友達に教えてもらい、この生地を1と0の型を作って流し込めば2ケタも楽勝!と言うは易し、そんなに簡単にできていれば今頃ククパにそんなレシピがあふれているはずでw

味は美味しくて大好評!本当は3倍高さがあったはずとかわざわざ言わなきゃわかりゃしないさ。

しかしこれいつまで作るのかしら私ったら。「15」とかでギブアップかなあ?

 

コロコロコロコロ騒がしいご時世、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

やれマスクをするだのしないだの、世界保健機構とかいう団体すらコロコロ態度を変えてますからね、我々下々のものが安定した対応できるわけはないですな。

学校も幼稚園も始まりましたが、学校の方の行事関係はもれなくストップ。

次男の通う幼稚園は、「行事は子どもを育てる大きなタイミング」と捉えているのでなんとかどうにかどうしてもやりたくて園長必死w

プールも入る。プールバッグを持って登園する次男を恨めしそうに見つめる長男。ほんと子どもって水が好きだよなあ~。←ちゃんとウエットスーツを着せてます♡ハイシーズンならともかく梅雨時の入水はチビにはきつい。

 

例年ならこの時期の年長さんはとっくに合宿へ行っている。

うちの園の合宿は「おとまり保育」なんてふわっとしたもんじゃなく、5歳児が2泊3日で御岳山という山へ登って山小屋に泊まるという、ガチな合宿。

今まで母と離れて寝たことすらないという園児も多く、おねしょの問題やら体力の問題やら親と離れた不安と寂しさやら集団とのかかわりやら全てを乗り越えるために母も子も向き合い、先生たちもひとりひとりの能力と超えるところをカスタマイズし子に「合宿行って楽しかった!」という思い出を生涯に刻むことに総勢でコミットするという、多分ちょっと普通では想像できないナナメ上な年中行事。

どのくらいカスタマイズするかというと、子どもによっては「この子に2泊は無理です」宣言を下され独自メニューを提案されるとか、一人でお風呂に入れない子には家族が近くの山小屋で待機してお風呂だけ家族と入ってまた合宿に戻るとか、前後の懇談会は暑苦しいくらい子育ての悩みをぶちまける涙涙の吐露合戦になったりなんかもうそりゃ私もこの園は初めてで初体験なので、何がどうでどの辺をどうすればよいのかも全くわからないですw

特にうちの子は、生活全般身の回りはとっくに自立してますしね、お泊りもなんなら3歳くらいの頃からばあばの家へしょっちゅうピンで泊まりに行っていますし、どの辺をどう心配してどういう力をつけさせることにコミットすればよいのか、みんなの涙の中でわりと宙に浮くっていう…←共感力の欠乏w

そんな園生活きっての一大イベントが、今年はできるかどうかの危機にあり。

今のところ2学期に日帰りで、の予定ではありますが、それもどうなるかわからないので、「合宿に行かなくてもつけさせたい力をつければよい」というますます私が困る展開になりつつあります( ノД`)

 

年長になると、グループ活動に「リーダー決め」という課題が入ってきます。

わけもわからず最初は結構な数の園児がリーダーに立候補するんですが、リーダーとは何をするのか?そもそもリーダーとは何ぞやと聞くと、「…背の高い人?」とか「走るの速い人?」とかなかなかほほえましい回答が返ってくるw

仲間で話し合っていくうちに、なんで自分がリーダーにふさわしいと思うのか、なんでこの人にリーダーをやってもらおうと思うのか、というディスカッションと通して子どもたちはコミュニケーション能力を磨いていきます。

何度か触れてますが、アクションがデーハーな母親(=私w)とは真逆なうちの次男様は、宇宙レベルにマイペースで地味な人。

わちゃっとした雰囲気も好きではないので、お部屋の片隅に専用のイス机を置いてもらい、そこで好きな迷路や折り紙なんかをしながらみんなの話し合いに耳だけダンボで参加しているそうです。

リーダー決め話し合いがあった時はもう、最初から全拒否で、話し合いにも参加したくない、リーダーはやりたくない、誰がリーダーになっても文句は言わない、と取り付く島もない。

「なんで嫌なの?」と聞いても、「どっちでもいい」とか意味不明な回答しか得られず、母は表面は平静を装っても脳内で息子の胸ぐらつかんで奥歯ガタガタの刑に処す。

しかし、幼稚園のおまつりに出店するおもちゃを作るリーダーを決めるときはなんと、「作るの好きだからリーダーになりたい」と立候補し、「ゆーりくんは作るの上手だからリーダーがいい」と周りも推してくれて、リーダーになったそうです。

いやあこの人は幼稚園にいる間はやらんだろうなあ、と思っていたので意外な急展開。

担任の先生に「私なんか変な圧かけましたかね?」となきついてみたら、「ゆーりくんは誰かに言われて動くような子じゃないですから」と明答されるw

そう、本当にやりたくないことはやらないし、興味がないことは本当に動かない。でもそれが興味があることであれば、やる。全くもって心配のしがいがないのですw

体調の上がり下がりも感情の起伏もほとんどなく、今の現状を等身大で、ただ自分に正直に生きている。

「幼稚園で好きなお友達は?」と聞いても、

「わからない」

「苦手な友達は?」

「わからない」

…………

「そうか!やっとわかった!好きとか嫌いとか、ないんだね君は?!」

「そうだよ、そうなんだよ!」

樹 木 み た い な や つ だ な お ま え 。

来るもの拒まず去る者追わず、なんでこれほどこの人はたたずんでいられるのだろうか。

 

自信とは、自己肯定感とは何ぞや。低い日本人にはわりと課題な人が多い。もちろんそこを上げることも園の活動の大きな狙いのひとつです。

コロナで延びたけど、年長イッパツ目の大事な行事に、「こいのぼり作り」というものがあります。

大きなこいのぼりをクラスの園児で共同制作するのですが、そこはまだ5歳児同士なので簡単にはいかず、ああしたいこうしたい誰々はああいったこうやったなど様々なドラマを生み出しながらひとつのこいのぼりを作り上げていく。

これも制作を通して園児同士の関係性を築く狙いがあるのですが、もう一つ重要なことは、「作るのは『みんなの』こいのぼりである」ということと、「みんなのこいのぼりを作るには年少年中で自分のこいのぼりを作れていることが必要である」ということ。

自分のものを集中して作った経験があるから、全体のものを作ることができる。

みんなのものなんだけど自分のものでもある、という気持ちが大事なんだそうです。

そうやって自分の属する集団を信用し、本音を言い合う練習をしながら自分のありのままをさらけ出し安心できる仲間集団の中で、上下関係ではない対等な関係を築いていく。

みんなで作るこいのぼりの中の、自分で描いて自分で塗った色に自信を持つためには、その前に自分の作りたいこいのぼりををとことん作っておく必要があるのです。

ワンネス、ですよね。勝ち負けじゃない、お互いに認め合い調和のとれた世界を築く。

ワンネスとは、アリの集合意識みたいなもので、ひとつひとつの個体が意識を持ちながらも全体で大きな何かを成し遂げていくことです。

めっちゃマウンティングする俺様なアリばっかりだったら、その集団は到底巣には帰れませんw

人と比べて勝ったの負けたの、人を否定したり自分を否定したりして競争していくことは、いずれ疲弊して心か体がポッキリ折れてしまいます。

自分を信用し、他者を信用し、自分の属する集団を信用して安心できるからこそ、大きな何かを成し遂げることができる。これが争いのない平和な世界を創るカギですよね。

なんかこう、偏差値教育の競争世代には耳が痛い話じゃありません?w

お友達の息子さんが魚とりが上手で、大学生の今でも週3以上水に潜ってひたすら魚とりをしながら、自分の人生でやりたいことは何か、模索しているそうです。

とうとう見つかったらしいですが、したいことをとことんやった彼は自信にあふれ、教えてもいないのに宇宙の真理を語り始めた。悟りってやつだそれ。

こんな風に生涯自分のやりたいことととことん向き合えるって、素晴らしいことじゃないですか。

子の将来を心配し「ああしなければこうなる、こうしておかないとああなってしまう」と抑圧するのでなく、ただしたいことを徹底してやることを見守るだけの親であれば、どんなに子どもの人生は楽しく光り輝くのでしょう。

自分が自信にあふれれば、当然他者をも認めることができ、マウンティングの必要もない。

こんな人がたくさん増えれば、地球に大きくてステキなこいのぼりが創られますね。

 

長男の幼稚園も、規模や形態は違えどマインドは似た感じのところでした。

毎日いろんな公園で遊ぶだけの幼稚園で、知育もお遊戯も何もなく、ただ徹底して遊んだ3年間でした。

その長男が10歳になって今どうかというと、彼も自分や他者を否定しません。私の子なのにw

彼はたまたま勉強が好きな子なので、学校は全部楽しいし、宿題もいつの間にか勝手に終わらせているので母はますます母の仕事が楽でありがたいです。

別にたまたま好きなだけなので、これが学校の勉強が嫌いでやらなくても、代わりに好きなことができれいればいいと、私は思います。次に控えている次男がどう転ぶかもわかんないしさ。

そして特筆すべきは、そういう肯定感は、クラスをも全部上げてしまうのです。

人数は少なくても問題がないわけではないクラスですが、いじめのようなことは一切発生しません。クラスメイトが学校へ行きたくないと保健室登校になっていても、みんなで付かず離れず待っててくれる。お互いにまるっと認め合っているんですね。

さらに歴代の担任の先生は全て「アタリ」を引いてくる。

波動が高いというか、良いクラスなんですよ本当に。ありがたや~~

 

自己肯定感というのは、身体が不快でも下がったりします。心身は一体ですからね。

おっぱいやミルクでできるだけ育て少なくとも1歳半までは離乳食を与えず子どもの体に徹底して不快を与えない、と言うのが私がやっている西原式育児でありますが。

やはり、「立ち返るところがある」というのは、逆境に強いよなあと感じます。

先日、子どもらと「おっぱい談義」になりまして、おっぱいはどんな味だったか?に、元おっぱい星人の長男は、とにかくとにかく美味しかった、と。ミルクは甘いしおっぱいも甘いけど、おっぱいはちょうどよい甘さというか、とにかく美味しかった、とアツく語られました。さてはおぬしまだ未練があるな?w

でもね、10歳になってもここまでおっぱいの味を詳細に表現できるって、幸せなことじゃないですか?

もう10歳になって色んな、こんなイチゴだらけのスフレケーキとか世間的に「美味しい」と言われるものを食べてきていても(野菜以外…)、今までで一番美味しかったのはおっぱいだったと、これ40のおっさんになっても覚えていたらすごいことじゃありません?

そんなおっさんになってもおっぱいの幸福感を持っていられるって、大きなギフトだと思うんです。だいたいおっぱいが足りないから不足感に苛まれるわけだから。

これからの人生、色んな荒波も襲ってくるでしょうけども、潜在意識でそんな満ち足りた幸せ感があってさらに記憶に残っているとしたら、人生に絶望することなく乗り越えていけそう。

それでただ楽しいことだけをやれる人生だったら、最高ですよね。

この星に生まれてきた目的を全うできそうな気がします。

 

好きや嫌いすらない、樹木な次男はさらにその上を行きそうですがw

徹底してやりたいことしかやらないこの人がどう頭角を現してくるか見当もつきませんが、ただ信じて見守れる親でありたいと、今は決意できる…かな?(´Д`)

とりま合宿でつけさせたい力を考えねば~

次男に関しては、「その人が信じるに足る人物かどうか観察する癖がある」と言われたことがあります。

時間がかかっても、この世はステキなことで満ち溢れていて、ありのままでただ楽しいことをやるだけの信頼できるところであることがわかれば、飛び跳ねる樹木になれるんだろうな。

それも最強じゃん(゚д゚)

 

 

☆むしろ台所×そえる堂謹製・有料育児オンラインサロン「アンテナ」
 入会随時募集してます。
 育児の悩みをみんなで共有、解決していくサロンです。西原式育児に限りません。
 興味ある方はメッセージください♡

 

☆おしげさんは現在・足ツボ屋さんですw

東京八王子の足つぼ・経筋施術サロン

 

 

 

うちの次男が素晴らしいと思う件その2

コロ休もそろそろ終盤に入ってきている昨今、いかがお過ごしでしょうか。

我が家はおかげさまでとても元気に過ごしております。

例に漏れず毛穴からケツの穴まで緩みまくっておりまして、今月から色々始まる?毎日弁当作るとかいやもうそれ現実?くらいに伸びきっております。

子どもたちも当社比2倍くらいの緩みようですが、考えてみれば時間に追われない生活って、なんて贅沢なんでしょうね。縄文だわ縄文だわ。コロちゃんサマサマ!

そんな中、今年小学4年生になられた長男が、5月中頃からてんこ盛り宿題を出されるようになり。

家庭自習なのに1時限目、2時限目ときっちりプログラムが組まれております。

「会ってなくてもみんなと繋がっているんだよ」

と、誰にも言われてないのにちゃんと8時半から自習を始め、時間になればちゃんと中休みも取って、けなげにやっております。

この人のこういうところ我が家の誰にも似てないのよね。監視の目がなければどこまでもだらける私は、思わず「アンタ真面目だね」と言ってしまうという、母親失格。

宿題の中身もほとんど見たためしがないので、彼が何をしているかすら知りませんw

登校日に戻されたプリントに珍しく目を通したら、

 

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小学4年生アホ真っ盛り。なにをやっておるのかね君は。

 

というコロど真ん中で、次男が6歳におなりあそばしました。

 

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(後ろにあるのは巨大な流しそうめん機w「何が食べたい?」で主役からのリクエストがコレ…)

米粉シフォンケーキの真ん中にクリーム突っ込むだけという、テキトーなケーキですみません。このまま長男カンフーLINEでオンライン呑み会のため飾りつけタイムがジリ貧で大変テンパってたんです~

そういや今年初めてこの人に生クリーム解禁したかも。すっげえうまそうに平らげておりましたwこの人食べ物の見た目関係ないので、だからこっちの盛り付けが雑になるのよね←言い訳

米粉シリーズを会得しておいたおかげでどれほどこのコロ休が救われたか…みるきさんありがとう!その中でもふわふわ米粉食パンは神です神!こんなに材料ヘルシーなのにヤマザキに余裕で勝ってる!

 

そしてね。

このコロ休の真っ最中に、順番が回って来たんです。

なんの順番か、っていうと。

 

次男の幼稚園は、それぞれの個に応じた保育にとても積極的です。

「みんな違ってみんないい」

それぞれの個性に合った保育って、言うのは簡単ですが、なかなか実践するのは難しい。

どうしても似たような箱に入れて、出資者である親に対しこれだけできるようにしましたよ、で子どもを「評価」しがちです。

評価も、それぞれの個性に合わせた評価ならまだ良いのですが、「こういう子が好ましい子」「こういう子が良くできた子」というのは、大人の思い込みであったり社会的通念であったり世間体だったり、という基準で設定されがちです。

そうすると、一般的な大人の思い込み基準に合った子、例えば誰にでも挨拶できるとか、文字を早く覚えるとか、運動会でプラカード持って先頭歩けるとか、たまたまそういう個性を持った子は高い評価をうけても、そうでない個性の子は「なぜそうなのか」の話を聞かれることもなくバツをされがちだったりします。

よくよく見てみると、「大人にとって好ましい個性の子」というのは実は本当にわずかであり、好ましく思える子も大部分は「好ましく見える自分を演技している」場合がとても多い。

本当の意見を言わず、お母さんや先生が期待する自分を演じる。若干4,5歳の子がそれをやるというのは、けなげな反面「どうせわかってもらえない」という固い仮面を一生かぶって生きていく可能性もなきにしもあらず、それほどまでに幼児教育は人生にとって重要な部分を占めると、私は思います。

そんな教育の中に突っ込むくらいなら、いっそどこにも属させずに縄文に戻したいとすら思ってしまう。まあ、私自身の色々なトラウマがねw

 

発達のテスト、というものが存在します。

「欧米か!」じゃないですけど←古、日本でない先進諸国では、この発達のテストをもう、2歳くらいの頃から受けるのが普通な国が多いのだそうです。

これは本来、知能の発達が遅いか早いかを見るものではなくて、誰にでもある子どもの「でこぼこ」、つまり「個性」を周りの大人が把握しておきましょう、という目的のもとに行われるものです。

例えば、集団で行動がのんびりな子がいるとすると、指導する側から見れば輪から外れるのは「大人にとって都合の悪い個性」であり、なぜのんびりしているのかというところにフォーカスせず、ともすると「この子は他の子と比べて発達が遅れている」と勝手に判断してしまうこともあります。

でもこの子どもがなぜのんびりなのかというのは発達が遅れているという理由とは限らず、例えば慎重な性格だったり、人の雑多なエネルギーが見える子だったり、周りのたくさんのことに気づく子だったり、と、色んなポジティブな理由があります。

「どんな子であるか」を見える化することによって、集団の指導者がひとりひとりの個性に寄り添う指針を共有することができ、結果的に大人の思い込みによる個の埋没を防ごう、というものです。

 

でもこれね、日本では、

発達「障害」

という言葉にしてしまうのよね。

個性も障害も一緒くた。陰謀か?w

こういうテスト(田中ビネーといいます)はたいてい、療育と呼ばれる機関で行われており、もしや我が子が「障害」と診断されてしまうのではないか、そこに抵抗を感じない、その可能性にハードルを感じない親はいないはず。

しかも医師の診断書がなければ、幼稚園で加配サポートを受ける行政の支援は受けられないのです。(加配を受けるのに発達障害という診断名が必要、というわけではない)

ひとりひとりの子どもの個性を大切にするためにもうちの園はこのテストはみんなが受けてほしいと願ってますが、イメージ的に親がそもそも受け入れられないので当然ナーバスな問題であり(伝え方によってはトラブルになる)、見方によってはせっかくこの園にいるのにもったいないな、というケースも出てくるようです。

しかし園では積極的に、外部から講師を呼んだり講習会を定期的に開いたりしているので他の園よりは目覚めている親は多く(大学のゼミ室とつながっている)、意を決してテストを受けたいと該当機関に電話をすると「またおたくの園ですか」と言われる始末ですわw

 

そりゃ私だって最初はめっちゃ抵抗ありましたよ。

うちで見ている限りの次男は全く普通だし、むしろアップダウンのとても少ない「凪」な子で、この子が大人で周りが子どもすぎるのがそもそもの問題なんじゃねえの?くらいに。

「うちの子に文句あるんかいウラウラ」

て、ありがちなやつですな。

でもこれって私も、「親から見た都合の良い子でいて欲しい」という幻想の罠にハマってたってことなんですよね。

本当に子どもに文句がないところまで、子どもを受け入れていない証拠。

「子どもにとって一番幸せなのは、自分のペースで成長できること」

とことんまで我が子を受け入れているなら、徹底して子ども生来のペースを受け入れて、その上で環境を整えてやる覚悟ができるはず。

自分で言っといて自分でできてなかったんですな。

 

子育てって親がどれだけ子どもと向き合えているか、その一言に尽きる。

向き合うって、一緒に遊ぶ時間の長さとか、そういうことではなくて。

うちの次男はおねしょが長かったです。

膀胱は腎がコントロールする管轄なんですけど、中医学的に腎の成長は年齢によっていて、男は8の倍数、女は7の倍数で満ちていきます。

養命酒のCMでお馴染みのやつね。

つまり男の子は8歳、女の子は7歳までは腎がとても未熟なので、そのくらいまでのおねしょはあって当たり前なんです。

誰それはもうおむつ外れてるのにとかいつまでもおねしょが治らないとかお母さんが悩んで無理やり薬でなんとかしようとか子どもを脅したりなだめたりすかしたりしてもですね、腎が未熟なんでそもそも子ども自身にコントロールが無理なんです、無理。

むしろ「おねしょしたら怒るよ」なんて恫喝は子どもにとっては抑圧にしかならない。だって体が未熟なんですもの、「やらないように」なんてできるわけがないじゃん。

うちは、長男は腎の成長が早い方なのでおねしょもほとんどしたことがないのですが、それでも7歳くらいまで「やべ!」って起きたであろうシミパンがよく洗濯機に投げ込まれておりました。

次男も性器の成長とともに格段におねしょが減っていっていたのですが、まだ時々は不意打ちにあったりしてね、落ち込むのよ、そういう時に限ってガードしていないんだよ~(;ω;)

6歳前かな、ちょっとしたことが起きて、そうか私がこの子のままを受け入れてないんだ、と腑に落ちたら、そこからピタッとおねしょが止まりました。

なにか特別なことをするわけではない、なにか特別な言葉をかけたわけでもない、ただ私の「うちの子はこうあらねばならない」がふっと取れたら、「母から受け入れられたエネルギー」が彼に伝わったんですね。

全てのおねしょの原因がこれというわけではなくてあくまでもうちはこれだったというだけではありますが、それでも、人間関係って究極は、エネルギーなんだなあと体感した今ココ。

 

そんなタイミングで、田中ビネーを受ける順番が回ってきましたに話が戻る。

昨今はワクチン過多のお陰かどうかこの分野が大盛況で、順番待ち4ヶ月でした。NPO団体が主催されているものに申し込んだのでまだ早い方だったけど。

診断される方の言葉で一番引っかかったのは、

 「この問題の時はこういう答えを期待しているのですが、この子はこういう答え方をした」

という言い方。

以前の私なら、なにそれ、ってちゃぶ台ひっくり返して帰ってきたと思うわw

ずっと診断を聞いていると、次男は一貫して「自分のペースでやりたいことをやる子」であり、「彼にとって人にどう見られるかの評価は関係ない」ことがわかる。

なんだ、やっぱそうなんじゃん。つか田中ビネーすげえな、合ってるわ。←上からw

ひとつ、大きな収穫だったのは、自分のペースでやりたいことをやり他者の評価は関係ないので、言葉を発するという行為を通して自分で自分の場を作るという努力をしないもしくはあきらめてしまう、という彼の特徴が言語化できたこと。

なるほど彼に対する違和感はそこか、と。

子どもが一人の時は親もひとりだけ見ればよいのでチャンネルも合わせやすいのですが、二人になると二人の中間点というか最大公約数に合わせて行動するので、言葉が達者だったり意思がハッキリしているひとりめに焦点を合わせがちになっちゃう。

特にうちは長男がやりたいことを積極的にやる好奇心旺盛な性格なので、弟はただついていくだけで色んな収穫が得られてラクなんですよね。

「あなたはどうしたいの?」と聞かれる機会が格段に少なかった。はい私ですね反省してまーす!

そしてフロンティアなひとりめと、おとなしいふたりめができあがる。あるある。

ここに「加配」と呼ばれる保育サポートをつけると、日常の保育で付かず離れず見ていてくれて(付かず離れずが重要)、ここ、という時に、「こう言いたいんだよね」とか「こんな風に言ってるみたいよ」とか橋渡し的役をしてくれる大人がいてくれることによって、集団の中で自分に心地よい場を作り上げていくコツを身に付けていく、ということらしいです。

まあここも結局は親である私の向き合い方なんだろうなとは思うのですが、残り少ない幼児教育期間を有意義に過ごす環境を作ることはやぶさかではないので、加配サポートを申し込みました。

まだコロ休だけどさ。

 

そもそも3歳や4歳の子どもが大人数の集団にそんなに簡単になじめるかというと。

3歳はまだ「個」の年頃なんで、お互いに勝手にやってるからそれほど問題もないのでしょうけど、4歳代になってくると、それでなくても人間始めの子どもたちが大勢たかって口でも体でも主張しあうんですから、そりゃ苦手な子も出てくると思いますよ。

大人だってね、何しでかすかわからない集団の中で自分らしさを保てるかといったら、無理でしょう。たとえは悪いかもしれないけど自分がもし突然見知らぬ刑務所とかに突っ込まれたらどうふるまえるか、想像してみなされ。

長男は小人数の幼稚園だったし、なんなら小学校はさらに少人数だったので、そういうショックを受けずにここまで来たというのもあるかもしれないです。

だからといって大人数がよくないかというと、それはそれでいいところもあるしハードルが高めな分クリアできる問題も多いでしょうし、なによりこの人が選んだ人生ですからね。

少人数で育ってるうちの長男に問題がないかというと、この人はこの人で注意されることにすごく弱い人なのでね、「褒めて育てる」の罠にハマったなと( ノД`)私もひとりめはお母さん初心者ですのでね、幼児教育に明るい人は子どもの「できる」を基準にはしない子育てができてうらやましいなと思ったりします。どうしてもね~、よくできたねすごいね、って言っちゃうのよね~~

 

発達のテストは、知能とは別で、「漠然とこの子が心配」とか「人と比べてもしや遅いのでは」などという動機ではなくて、この子の個性を存分に発揮するために周りの大人がサポートをするための認識を共有する目的として受けるなら、プラスになるのではと思います。

実はこの世は全てがエネルギー、子育ても親がどんなエネルギーを乗せるかで結果は全く変わってきます。特に子どもは言葉以外の見えない領域にとても敏感ですから。

このコロ休中に、うちの屋根のひさしに巣をつくっているムクドリのヒナが落下してきまして、奇跡的に生きていたのでレスキュー、2週間ほど継母やって数日前に無事自然に還りました。

2時間毎に練り餌やらミルワーム潰したエサやらを与えるという、子どもの離乳食だってろくすっぽ作ったことがないこの私が、と思いつつ、夜はがっつり寝てくれるので、夜間授乳がないだけ人間の子育てよりははるかに楽でした。しかもあっという間に巣立つし。人間マジめんどくさい(;´Д`)

でもね、相手は野鳥だし飛ばすの前提だからなにひとつ期待してないし、なにひとつ将来の心配もしてないから、純粋にヒナ育てが楽しめるし、飛び立った後はもう、彼の身に何が起ころうとどうにかできるわけではない。本当にスパっと手が離れる。

人間の子育てもこんな風に純粋に、なにも心配しないで受け入れて、ただ温めてお腹を満たしてあとは愛だけで繋がれたら、本当に幸せな育児ができるんだろうなと思いました。

やっぱり目指すのは縄文だね!

 

ではまた~♡

 

ムクドリのムックン。

落ちてきた最初はヒヨドリだと思ってたから、ひよちゃんだったw

コロ休狙って落ちてきたとしか思えん~

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うちの次男様は素晴らしいと思う件

こんにちはです(^▽^)

ブログではずいぶんお久しぶりになってしまいました。

私とむしろ台所診療所が運営する育児有料サイト「アンテナ」では努めて書くようにしているつもりではありますが、何せ私の場合「文は自動書記」なのでw、エモーションが沸かないと書けない…ライターって商売にはきっと向かないわw


コロちゃん騒動の中、皆さまお元気でお過ごしでしょうか♡

うちも例に漏れず学校も幼稚園もがっつり閉鎖になってしまいましたが、本気で楽しい毎日を過ごしております。コロちゃんありがとーー!!(なぜ楽しいかは後述します)

ありがちな「子どもらのお昼の口をふさぐ問題」についても、去年からレッスンを受けている米粉パンで回避。

すごく美味しくて子どもらも大好きだし材料費もそれほどかからないし、もう普通のパン屋さんに足を止めることは全くなくなってきました。そういえばパスタも全く欲しくなくなったから「小麦粉は中毒性」説に一票。

ちなみに今日のお昼はシーチキンとコーンの米粉クリームピザでございます♡

 

私がレッスンを受けているところ→

みるキッチンもぐもぐ

(アンテナのメンバーさんなの♡)

 

小学校の一応建前としては、「午前中は家で家庭学習」なのですが。

子どもの勉強を見るとかマジ無理な私は、ネットの波からこういうものを発見して観せております。

 

探究学舎 

http:// https://tanqgakusha.jp/

 

コロちゃんで困っているご家庭に、期間限定の無料で授業を配信してくれています。

内容は、普通の授業とは違って、子どもの興味をそそるような、宇宙の話とか映画の話とか、学年を問わず観られるお話。

時間も午前中の2時間くらいなので、我が家のペースにぴったり。5歳の次男も半分くらいまではお兄ちゃんと頑張って観られているよう。

午後は、クラスの同級生たちとうちの前の河原で遊んでいます。

みんな暇すぎて出席率が異様に高く、ここに担任の先生を呼んだら課外授業ができるんでねえ?くらいの勢いですw

この一か月でいかに秘密基地を作るか、しか頭にないらしい。子どもすげえ。

雨の日はおうちで、紙ねんどやったりお絵かきしたり。

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左が次男作、右が私作のペンギンさん。なかよし風でこの作品がとっても気に入っています♡

夜は花札かトランプの相手。

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うちにはこういうふざけた花札しかなくてねえ。デザインされ過ぎていて絵の判断がまあまあ難しく、実用にあまり向かない。ムーミン花札なんか赤タンに文字が書かれていないんだぜ?記憶でしか役を作れないじゃんね。

 

というわけで毎日がっつり子どもの相手をしている私ですが。

これが毎日とても楽しくて、この時間を作ってくれたコロちゃんにとても感謝しているのです。

普通なら、というか、今までの私だったら、「仕事せなあかんのに子どもがずっといるとかずっと相手しているとかマジでくそダルい💢」としか思わなかったんですけどね。誰よりも子ども嫌いだしさ。

特に、次男との時間が取れるのがうれしい。

長男は当然初めての子どもなので、次男が生まれるまでの4年間母とはマンツーだし、彼とはがっつり遊んだ自信がありますが、次男は二人目なので新鮮味がないというか、私の子育てへの意欲も落ち気味というか、母と遊んだ絶対時間が少ないんですよね。

なので長男が同級生と遊んでいる間、ほぼ毎日次男と公園デートをしています。

お兄ちゃんラブな次男には、お兄ちゃんがお友達と遊ばない日は嫌われる母なんですけどね( ;∀;)

 

「愛」と「愛すること」は違う。

子どもが健やかに育つには、どちらかではなく、そのどちらも必要なんだーー。

この記事を読んだとき、頭をガツンと叩かれたような、今まで感じていたモヤモヤがスッキリ晴れたような、そんな感じがしました。

 

『チョコレートドーナツ』の映画は家族愛とは何か、子どもの幸福とは何か、何を大切に生きるのかを考える | AI-am

 

これは「チョコレートドーナツ」という映画のレビュ

ーなんですが。

そして映画そのものはまだ私は観ていないのですがw観てない私が死ぬほどざっくり内容を説明すると、あるゲイカップルが、薬物依存でシングルの母に育てられていたダウン症の子を引き取って養育する、という話のようです。(実話だそうです)

ここにこんな一文がありました。


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はじめて3人でごはんを食べたとき、ごはんを食べようとしないマルコに、ポールは「好物は?」と聞く。

マルコは「ドーナツ」とこたえる。

それに対してルディは「夕食にドーナツなんて体に悪いから」と言う。

ポールは、ラッキーなことにちょうど家にあったチョコレートドーナツを「たまになら害はないよ」と言って出してくる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

映画の紹介文では、「愛のない家庭で育てられたダウン症の子ども」と書かれてますが、レビューの執筆者はそうではない、と言います。

薬物依存でシングルのこの母は、このダウン症の子どもを抱えて、少なくとも放り出すことはせず、14歳になるまで養育した。

つまり、子どもを育てるだけの愛はあった。

ただ、「愛すること」を知らなかっただけだ。

「チョコレートドーナツ」という象徴的な題材を使い、「夕飯にドーナツなんて体に悪い」という、子どもに対する「愛」と、それに対して「君はどうしたい?」と、ダウン症の子どもに聞く、子どもを「愛すること」について、対照的に表現している、と。

これを読んだ時、

そうか、

と、

愛すること

とは、違うのか!

目から鱗がボロボロ落ちまくりました。

 

私たちの中に「愛」はあります。

特にこのブログにたどり着く人たちや、私も含めて世に言う「子育てに熱心な」人たちは、ことのほか愛が強い人たちだと思います。

子どものために、あれをしなくてはこれをしなくては、これは体に悪いからあれは教育に良いから、食べ物に気をつけ放射能を避け色んなことを一生懸命調べて世の中に怒りを感じたり行動したり、それも私たちの中にあるたくさんの「愛」です。

それ自体はとても尊いものだと思います。

だけど、あまりに愛がたくさんだと、「〜でなくてはならない」にいっぱいいっぱいになってしまい、「愛する」という行為まて手が回らなくなりがちで、結果子どもは「愛」を「抑圧」と感じてしまうことに陥りやすい。

抑圧を感じ、「僕を見て!愛して!」とSOSを発した時、体の不具合になって発現させる子どももいる。

発熱だったり湿疹だったり、時には虫歯だったり。

もちろん「愛すること」だけで「愛」がないのも、健やかに育ちにくいでしょう。

様々な不具合の原因が愛されないことだと仮定したとしても、どんだけ愛されていても幼い頃からのチョコレートドーナツの食い過ぎは当然虫歯になりやすいでしょうしw

甘やかし放題のジジババが子どもの言うがまま与えて将来に健康不安を残すことが良いこと、とも思いません。

 

じゃあ、「愛すること」って、なんでしょう?

この映画では、「ドーナツは体に悪い」というセリフに対し、「君はどうしたい?」と子どもに直接聞きます。

ドーナツを出されても食べようとしない子どもに対しても、「食べずに見るだけ?」と言って、待ちます。

ここには、子どもに対し「ねばならない」ではなく、「あなたはどうしたい?」と、存在を認め、信頼する姿があります。

与えているのは「安心(=愛すること)」であり、「正しさ(=愛)」や「~しないとこうなっちゃうよ」という「恐怖」ではないのです。

 

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わたしたち親は往々にして、自分のおもうようにこども(他者)を動かしたいとき、相手を責める言葉かけをしています(「そんなことでどーするの」「何回言ったらわかるの」など)

つまり、相手を責める言葉かけをしているときというのは(わかりやすいのは、叱っているときや怒っているとき)、自分のおもうようにこどもをコントロールしたいときです。

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自分の思うように他者をコントロールしたい。

「愛」が強いと、時に陥りやすいところなんじゃないでしょうか。

犬猫は掛け値なくかわいいのに、自分の子であれよその子であれ子どもはどうも苦手、というとき、それは、子どもに対しては「どうにかしよう」とか「どうにかせねば」と思っているから。

犬猫に対しては、そういうことはない場合が多いですもんね。特に猫は、どちらかというと飼い主の方がどうにかされちゃうのかしらw

そうか、よく躾けられた犬に対する違和感って、そこか。

 

振り返って、「子どもを愛する」を、「自分」に置き換えてみる。

私たちは、「自分を愛して」いるでしょうか。

愛はあります。私の中にあります。

でも私は私に、「あなたはどうしたい?」と存在を認め、信頼しているでしょうか。

自分もかつては子どもだった。

子どもの自分は、「愛」はあっても、「愛されて」いたでしょうか。

今の自分は自分を愛してあげているでしょうか。

自分を愛してあげなければ(許可を出せなければ)、他者にも許可は出せないし、愛せてはいないはず。

特に私たち親世代は戦後の抑圧の強い拝金主義世代に育てられ「何者かにならねばならない」呪縛のもと、この「掛け値なく愛される」経験の少ない、幸せ感が少ない大人に成長しているかもしれません。

そしてそれを私たち自身が次世代につないでしまっている可能性はないでしょうか。

 

うちの次男は長男と違って、非常に「わかりにくい」子です。

長男はいわゆる「よくできた子」で、他者からの評価もそれほど悪くないし、表面的には手のかからない子です。

対照的に次男は、非常にマイペースだし同年代のお友達ともあまり馴染まないし、誰かと会うとあいさつもせずクラゲのように2つに折れますw←子どもにありがちなコレって緊張を逃しているので、やめさせない方が良いらしい〜

私も最初は戸惑いました。兄弟同じように育てているはずなのにこの違いはなんでやねんって。

愛(=今思うと、正しさ)は与えているはずなのに、同じ結果が出ないのはなんでだろう?って。

次男は、幼稚園があまり好きではありません。

1クラス30人弱という雑多な環境の中、自分のパーソナルスペースが他の子どもに侵食されがちなことがどうやら苦手なようで、一時期は園のホールに入ることすら拒否していました。

「ざわざわする音が嫌なのかな?」と先生が試しにイヤーマフを付けてくれたら入ることができたので、しばらくは教室でも自分判断で付けていました。今は付けなくても大丈夫らしいのですが。

園庭でもあまり遊ばないのですが、理由を聞くと「色んな人にぶつかっちゃうから」。

子どもがロッカーにわっと集まる帰り支度の時などが最も苦手らしく、みんなが支度が終わるまで待ってからゆっくりと自分の支度を始めるので、帰りの会に間に合ったことがありませんw

でも先生のお話は録音再生の如く聞き漏らさず聞いているので、そうかただ座っていることがいいというわけでもないんだな、と思いました。

みんなと並んで座ることも嫌なようで(密着するから)、ひとり違うところに椅子を置いて座ります。これも自分判断だそうです。

それをさせてくれる園にも感謝なのですが、私がすごいなと思ったのは、参観等で母である私が後ろにいても、次男は自分のペースを全く崩さないのです。

なるほど!私の前ですら良いカッコするとか怒られるかもとかマイナス評価されるとか、そういうのはないんだ、彼は自分の選択に自信を持って、自ら「やりたくて」コレをやっているんだ、こいつすげえな、と。

私だったらみんなと一緒でないことが不安だし「どう見られるか」が気になると思うし、長男もそういう人種だったりします。(だからよその人から怒られるとやたら長引くのよねw)

 

そんな「自分らしさ」を失わない彼に、私ができることはなんだろう?

アンテナメンバーの方の経験談で、この方は小さい頃なんでも言うことをきく「すごく良い子」だったらしいのですが、なんと、その頃の記憶が全くないのだそうです。

小学校3年生くらいの時彼女のお母さんが突然、「あ、この子にはこの子のペースがあるんだ」と気づいてから、彼女に記憶が残るようになったのだそうです。

これってすごく怖いことで、彼女はただ親や周りの愛に応えている間はまるで自分の意思で生きていなくて、だからその間の記憶がない。

お母さんが子どもを「愛すること」に気づいて初めて、彼女の人生が始まったのでしょう。

この話を聞くと、私にできることはただ、彼を愛すること、存在を認め、ありのままを認め、誰がなんと言おうと彼に「大丈夫だよ」と安心感を与えること、それだけなんじゃないかな、と思いました。

自分自身の人生を振り返っても、「何者かにならなければならない」との強迫観念のもと、「もっと、もっと!」と今を否定し上へ上へと自分を労ることをせず、自分を愛すること=今のままの自分を認めてあげてこなかったな、と思います。

でも、何者かにならなくても、可愛いアイドルになれないおブスでもすげえピアニストでも羽生結弦でなくても、英語を喋らなくても三流大学しか入れなくてしかも美容師とかはちゃめちゃな選択をしてきても、なんとかなってるし私は私の人生をそれなりに生きてこれてます。

親を恨んでも他人を妬んでもどうにもならない誰のせいでもないコレが私が選んだ人生だし、子どもたちにしても私なんかが起きてもいない将来をムダに心配したりバタバタしなくても、そうやって己の人生を創っていくことでしょう。

そんな時私にできることはただ、「何があっても大丈夫だよ」と彼を丸ごと受け入れ愛することだけ、なんじゃないかなと。

そうやって子どもを丸ごと受け入れるには、まず、親である自分が自分を丸ごと受け入れること、自分を愛する手段はただ、未来でも過去でもなく無心に今を生きる子どもと、共にいること。
ただ子どもと無心に過ごしているだけで、こちらも無心になれる。光をもらえるんですね。
だから今、このコロちゃん騒動で子どもをいられる時間ができたことが心から嬉しいし、毎日が楽しいんです。今ココ。

これをきっかけに日本全体が原点回帰みたいになって、本来ある姿に戻れるといいですね。おうちにかえろう~~♪

とくにお父さんたち、長男同級生のお父さんとかもリモートワークになって、子どもらの釣りに口を出す時間ができたみたいです。

口出したくもなると思うけどね、エサつけないで鯉釣ろうとしたりするからさ←うちの息子wつーくんってそんなにバカだったっけ?って言われたww

 

ま、うちの次男もね、あの人のことだから、この先きっと人前でち○んこ出すくらいのことはすると思うんだよね( ̄◇ ̄;)

その時は江頭2:50を優しく見つめるような目で

「う ん 、 大 丈 夫 」

と言えるくらい精神を鍛えておきとうございます。

あー将来が楽しみだなーっと。

 

 

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