ゲーム問題についての考察
夏ですね。
夏休みですね(´∀`*)そろそろ終わっちゃうけど…
皆様におかれましてはお元気でお過ごしでございましょうか?
早いもので長男は9歳の小学3年生、次男は5歳の幼稚園年中さんになりました。
例にもれず二人で夏休みで、ヘタっております、親が(つД`)ノ
小さいうちの方がなんとかできたと思うのですが、長男はカンフーを始めて、発表会やら試合やらあるので中々長期間外に出すわけにもいかず、次男は少し遠い園に通っているので頻繁にお友達と遊ぶ、というわけにもいかず(結構みんな里帰りしている)、私も仕事があったりで、当然この間子どもたちをどうするか、という問題が浮上しております。
↓カンフーキッズな長男w
昔と違って今の子どもはテレビやゲームがあるので、外に遊びにも行かずエアコンの効いた部屋で一日中過ごせてしまうのですけども。
我が家は一応ゲームを禁止しているので、その手は使えないことになっている。
録画したテレビやDVDを時々観てる感じかしら。ダンナがチューナーぶっぱ抜いたのでそもそも地上波が観られないっていうw
有用なコンテンツもあるので、テレビを撤去するほど徹底していません。うちではゲームよりは身近ですので、たまには観せたりもしています。
たまたまシンカリオンとか観ちゃってさ、二人でドハマリ(;´Д`)
アンパンマンが丸いとか色々反則なキャラクターはあるけどさ、新幹線がロボットに変身ってそれもう男子的には法律違反レベルでしょ…
イマドキ、ゲームさせてないとか言うと、「子どもを抑圧している」とか「どうせ大きくなったらやるのに今我慢させると解禁したらジャンキーにはまる」とか、世間は結構そんな感じだそうですが。
私は、うちはうちで、みんな違ってみんないい主義なので、うちにお友達が遊びに来ても、
「はい、うちはゲーム禁止です。他のもので遊ぶか、外に行きなさい。」
とはっきり伝えます。
すると子どもたちは、素直に持参のゲーム機を置いて、他のもので遊び始めます。
我が家はゲームのかわりに、「ここはヨドバシカメラのおもちゃコーナーですかい?」というくらい、品ぞろえが豊富ですのでねw、飽きることもないらしく、再訪率も大変高いです。
ゲームはどこでもできるけど、翼くんの家にあるアレで遊びたい!と思わせる作戦、ができるくらい、厳選されたフェチなおもちゃがたくさんあるのですよw
なぜうちがゲームを禁止しているかと言うと。
いや、わかりますよ、私だってかつてはやってましたから。
ゲームボーイのテトリスをやらせたら、私の右に出るものはいなかったんだ←昔取った杵柄、ただし白黒バージョンに限るw
しかしドクターマリオはうちの姑には絶対叶わない。
聞いたこともないような電子音バンバン出しまくり、最終的には親指の腱鞘炎になって引退されましたw
やってましたけどね、私がやり始めたのは中学の頃からです。
うちの姑だって60を過ぎてから始めた。それもどうかと思うけどw
私に限らず、私の時代はゲーム出始めだったので、そこまで低年齢からゲーム漬けな子供は珍しかったんです。
ここでものすごく大事なキーワードは、
「子どもは大人のミニチュアではない」
ということ。(西原医師格言より)
脳みそも、腸も内臓も、子どもは我々が想像するよりずっと未熟なのです。
子どもは、大人をそのまま小さくしたような存在ではない。
だからこそ、「子ども目線で考える」必要があるし、そこを守るのが大人の役目だと思います。
昔の人はそれがわかっていたから、子どもがやってはいけないことに、ちゃんと線引きがされていた。
お父さんが晩酌のアテに刺身を食べてても、子どもに食わせることはなかった。
それは別に一家の長だから贅沢が許されるとかいうことではなくて、贅沢とはそういう意味ではないことがちゃんとわかっていたからだと思うんです。
まあそうでない人もいたかもだけどさw
少なくとも今よりは人間の本能がちゃんと働いていましたから、子どもが食べたがるからとマグロをてんこ盛り食わせるなんてことはなかったわけです。
生魚は脾を痛めますのでね、それを3歳4歳の子が常食することは、アレルギーのリスクを高めてしまいます。(アレルギー=脾の問題)
ダンナの同級生で、物心ついた頃から、ある時間までは日本語だけ、ある時間からは英語だけ、で厳密に育てられた人がいたそうです。
この人が成長してどうなったかというと、英語は確かに100点なんだけど、あとは全て0点なんだって。
人間の脳の仕組みってそうなってて、使う場所は特化するけど、使わなければあとは退化するんですよ。
これは何も脳に限ったことではなくて、筋肉も他の内臓も同じ。
寝たきりになったら筋肉衰えるでしょ?それが内臓でも脳でも起きるわけです。(廃用症候群といいます)
例えば長年ステロイドを使っていれば、動きを止められた腎は衰えて、機能しなくなってきます。
子供の脳などは特に発展途上なので、小さければ小さいほど、外からの刺激に影響を受けやすい。。
この話を、英語でなく、ゲームに置き換えてみなせえ。
小さい頃からのゲーム漬けは、脳みそがそこに特化してしまうんです。
低年齢からやってる方が、よっぽどジャンキーになると、私が思う根拠です。
何度も書いてますが、長男のクラスは、彼を含めて6人しかいません。
その6人中ゲームをしていない子どもは6人中3人だったのですが、年明けに、長男を除く2人がゲームを買ってもらったようで、とうとう、クラスでゲームをしていない子どもは、うちの子だけになってしまいました。
学童はゲーム禁止だけど、となりの児童館はオッケーなので、学童仲間だった同級生2人はもう、学童へは行かず、自宅にランドセルを放り込んだらゲームを握りしめ、児童館に走って行ってお友達と一心不乱にゲームをしているそうです。
学童で突然同級生のお友達がいなくなってしまった、長男。
さすがに不憫です。
「ひとりになっちゃったね」
と言ったら、
「うん、でも、みんなひとりなんだよ」
「どういうこと?」
「だって、友達とやっているようで、ひとりでやってるんだよ。気がついたら周りはゲームしかないんだよ」
この人にはかなわないなあ、って思ったなあ。
確かに、親が子どもを孤独にしてどうすんだ。
その視点はなかったわ。
この、コミュニケーション能力を磨く大事な時期に「共通の話題を持つ」というだけに終始して、人の気持ちを考えるとか相手の気持ちを想定するとか、そういう高度な技があの電気信号を見てるだけでつくとは、やっぱり私にはどうしても思えないです。
でね、この、年明けからゲームを買ってもらった同級生二人。
最初は夢中になってやっていたんですが、半年ほど経ったころ、わりと学童に戻ってくるようになったんです。
平たく言えば、「ゲームに飽きた」。
もちろんまだ時々はやってはいるんだけど、ちゃんと他の遊びにも目を向けるようになったというか、ゲームを介する以外の時間が断然増えてきたんです。
距離を置いた付き合いができているというか。
家庭環境が複雑だったりLD(学習障害)だったり問題がないわけではない子もいるんですが、ちゃんと「本人」にアクセスする道があるんですよね。
幼いころから際限なくやっている子には、この回路がそもそもない気がする。脳みその構造自体が変化しているというか。
だから、2時間やっても3時間やっても、飽きるとか満足するとかいうことがないルーティンワークなの。
うんうんわかるわかる、特に目的のないルーティンなんだよね、テトリスハマってた時の私もそうだったよ。
自分もそうだったからわかるけど、そういう子に「いい加減やめて勉強しなさい!」と怒鳴っても、それは抑圧にしか感じないんだよね、自分で止められないくらい脳みそが傾いているから。
それでも私は「ゲームスタート遅い組」だったので、「これを最後に辞める!」と自分で決めて、押し入れに封印して、大学受験の勉強を始めましたがw遅いわww
このときはほんっとしょーもないゲームにハマっててさ、大学受かってやっと解禁~♡と取り出して再開してみたら、クッソつまらなくて3分でやめたw
ゲームってもう、それっきり。
そんな程度のもんなんですよゲームなんて~~
幼い頃の脳への影響を考えたら、人生までかけてやるもんじゃないですって。
子どもは、12歳くらいまで、体と心がつながっていないそうです。
頭でわかっていることと、体験することが、つながっていないの。
だから体験をして、繰り返し繰り返し体で学ぶ必要があるのです。
極端に言えば、例えば、「殺す」という概念と、実際に「殺す」という体験が、つながっていない。
バッタバッタと斬り倒していくような仮想現実を見続けていると、そこに体験がなければ現実とあやふやになってしまうんですよ。
だから、「うっかり同級生を刺しちゃった」とか、大人には理解を超えたことが起こる。
友達と遊んで、自然と遊んで、なんなら虫さんたちに命を犠牲にしてもらって、心と体をつなげるのも、幼少期の大事な学びです。
だからこの、最近ゲームを始めた同級生二人が戻ってきてくれて、また学童で長男と遊んでくれていることが、私にはすごくうれしくて希望が持てる出来事でした。
今日からこの子たちと長男は、富士五湖の西湖まで学童のキャンプへ行っています。
「僕ね、A君とB君(学童の同級生)と一緒に遊ぶことが、人生で一番楽しいんだ!!」
そうか、そりゃよかったねえ。
なんか天気悪そうだし、キャンプファイヤーもできなそうだけど、いいんだなきっとそういう問題じゃないんだな~楽しんできたまえ。
端的に言えば、親として子どもに
「ゲームよりもっと面白いことを思えることを提供しているか」
ということを問われていると思うんですよ。
ほっぱらかしといて、やれゲームするなテレビ観るな宿題しろじゃ、そりゃ理不尽だよね。
勉強と遊びって同じじゃないですか。
同じと捉えれば、遊びや勉強の質もおのずと変わってきます。
知り合いはひたすら魚釣りに連れてったって言ってましたけど。
うちは決して「頑なに時代に逆行しろ」という方針ではなく、抑圧せずにいかにその上を提供できるかを心掛けておりますので、
例えば、ゲームはやらせなくても、レゴを組み立てて、iPadでプログラミングして動かす、みたいなのはやらせていたりするわけです。
今のレゴは進んでおりますねえ~。
iPadはまだ早い~!と私は思っているのですが、誕生日に買ってもらっちゃったもんだから、せめて電磁波ガードかけましたわ~
食べ物にしても遊びにしても、時代はどんどん変わっていきます。
その中で、いかに生物としての本能を逸脱せず、そうありながらも子どもを抑圧せず、難しい采配が求められる時代に生きていますが。
やはり子どもは「体験がすべて」。
なんでもいいから体験してみる。
気に入ったら、反復する。
頭や視覚刺激だけのものを与えっぱなしにするのではなく、身体の感覚を伴う遊び(=勉強)に誘い出す。
そして子どもは、表面上どんなに突っ張ってても、そういう遊びを本能的に求めています。
ゲームしかやらない、って言ってる子が、うちでこんなおもちゃにドハマりしたりするんです。
↑歯車の組み合わせを考えるおもちゃ
もっといえば、人間には皮膚感覚がとても大事。
物理的に皮膚感覚を養うことは、そのまま自立へと繋がります。
幼少期に親と肌をべたべた死ぬほど触れ合った子どもは、十分に甘えの欲求が満たされて、自立できる。
ほとんどの人はその時間が絶対的に足りないので、90のじいさんでも自立できてない人がたくさんいるんだそうです。
自立させようと早くから個室を与えられて一人で寝かせられていた子ども時代を送った世代は、足りないんじゃないかなあと、まだまだ親にくっついて寝ている長男を見ると思います。
やべ、もっともっと子どもたちを食い荒らさなくてはw
ま、長男は今でも、私のパンツのレースを握りしめて寝ているんですけどね←暴露w
同じ理由で、できるだけ子どもと触れ合うこと、友達と触れ合うような遊びをすることが、大きく人生に影響を与えるのです。
友達と約束して公園へ行っても、座り込んでお互いに通信ゲームやっているようでは、どうしてもその辺の感覚をつけることが足りなくなっていきますよね。
相撲とか、して欲しいよなwガチ正装でww
この間長男が、ぽろっと
「ゲームってさ、誰かが作ったお話の中で勝手に勝った負けたって怒ったりしているんだよね、おかしいよね」
と言い放ちました。
「アンタもう、そこまでわかってればいいわ、いいからゲームしてきなよ。うちじゃ買わないけど、友達のやつやらせてもらってくれば。大丈夫、アンタはハマったりしないわ。」
「えっ!?(´⊙ω⊙`)」←こんな表情になってましたけどねw
もちろん人生は自由意志、だけど、判断できるようになってから選ばせるという「子どもという未熟な存在だからこそ必要なハンデ」も、考慮する必要があるんじゃないかなと思います。
私は、親は子のリーダーである、という思いで日々接しております。
過度に機嫌を伺ったり友達気分になったりと子どもにおもねるのでなく、かといって放置するのでなく、人生のリーダーとして、背中を見せる。
ほら、「子は親の背中を見て育つ」っていうじゃないですか。
ロクな背中じゃないかもしれないですけどね( ̄◇ ̄;)、少なくとも、鏡であることには間違いはないんですな。
「あーもーどうしてこの子はー」の先には、自分の背中が内包されているわけでw
うちの長男様は、もう、学童で出る市販のおやつや私が作るケーキすら、甘過ぎてイヤなんだそうです。
このタイミングで、今まで寝る前にどうしてもやめられなかったミルク一本から、急に卒業しました。いや、ほんとに急にスパッと(@_@)
自分の体に必要ないと判断できるようになったんでしょうな。
こういう感覚が付いてくれたことが、すごく嬉しいです。
やってて良かったなあ、「待つ育児」。