いじめって何?~コミュニケーション能力を鍛える~
遅ればせながらあけましておめでとうございます。
今年のお正月はどこも行かずにお家で過ごした、というお宅は多いんではないでしょうか。
うちも例に漏れずでこんなに出かけない正月は何年ぶり?何十年ぶり??
去年の年末年始は、長男はダンナ実家へ次男は私の実家へ奉公に出したので久しぶりに家の中に子どもが不在で、あのね、子どもがいないとね、家の中が散らからないんですよ!
私が片付けた、まんまの姿で部屋の中が何日も変わらないの!
散らかす人がいないんだから当然といえば当然なんだけど、そんな当たり前の物理の法則すらすっ飛ぶほど、子ども2人の破壊力は強烈なわけですよ~
そして、去年ラクをした分だけ、どこいかず子どもフル出場な今年の正月の破壊力は倍率ドン。
それでなくてもヒマさえあれば段ボール工作している兄弟、色々すっかりあきらめたので正月の記憶がすでに消えてますわ私。
何してたんだっけか?
そうそう年賀状と、消しゴムハンコを作ったわw
いやね、長男の冬休みの宿題が消しゴムハンコを作る、で、なんだよその楽しそうな宿題昭和はそんなエンタな要素のある宿題なんか出たことなかったぞと対抗心がフツフツ沸きまして、次男のためという名目で母が創作意欲を消化させていただきましたよと。次男大喜びw
入学当初5人で始まった長男のクラスですが、なぜか順調に転校生が増え続け、今やなんと10人になりました!
プロパー数の2倍になるって何気にすごい。
本人たちは、最初は「人数増える!」って喜んでいたものの、だんだん「このくらいでもういいよ」モードに。良い経験をしてますなあw
要するにあの、日本で一般的な教室のサイズでの上限人数は、10人ってことなんだろう。ナチュラルソーシャルディスタンスw
そりゃね、何事もスペースに見合った「人数」というものがあると思うのよね。
うちのザリガニのザリジェット君だって、ハウスに見合った大きさにしか脱皮しない。水槽のサイズアップすると急に脱皮すんのw
椅子が入るだけ箱いっぱいすし詰めにすりゃ効率的かと言ったら、満員電車と一緒でストレスも軋轢も爆上がりするから返って悪くなる。
もうそろそろこんな昭和なやり方は終焉して良いんだろうなあ。
というわけで当初は男子ばかり5人だったのに、いまや女の子も4人に増え、なんと長男に彼女ができました。
告白されて、付き合うことになった日、帰ってきて開口一番、
「パパ、告白って何?付き合うって何?」
意味わからず承諾したんかいお前~💢
しかし放課後公園で一緒に遊んだあとはおうちまで送っていき、その時彼女のカバンを持ってあげているそうで、そんなこと1ミリも教えてないのに、なんなら私のカバンだって持ったことないのに、お前のどこの潜在意識に入っているんだそのデータは。
狙ってここまで少人数な学校に入れたわけではないのですが、結果的に少人数でよかったな、と思ってます。
最初男の子ばかり5人でスタートした長男のクラスですが、5人の中でしっかり信頼関係を築いた後、少しずつ転校生が増えたので、ひとりひとりとじっくり関係性を築くことができた。
転校してくる子たちは明らかに「カラーの違う子」たちなのですが、一つの価値観で撥ねたり仲間に入れたり、ということではなく、クラス全体でその子そのものをまるっと受け入れるので、転校してきた子もなんというか「浄化」される気がするのですね。
考えてもみて、自分が若干6歳や7歳で誰も知らない人ばかり40人もいる環境に突然入って、「みんなと仲良くしましょう」的なプレッシャーをかけられたら、どうやって集団の中で自分を位置づけ40人とうまくやっていくんでしょう?
大人だってめちゃくちゃ高度な政治力を求められると思いますよ。私無理だったのでこの人生の歩み方だったりするんですがw
そんな難しいところで一日の大半を過ごし親の期待を裏切るまいと子どもなりに一生懸命頑張ってきた子が転校してくると、新しいクラスでどうやって自分を受け入れてもらうか、自分の活路を見出すかと、色んなことをするんですね。わーおばちゃんその気持ちわかるわ~私は一度しか転校してないけどあれすごいプレッシャーだったなあ~転校が多かった人は本当に大変だったんだろうなと想像にかたくない…。
でも、受け入れられようと頑張らなくても、クラス全体にまるっと受け入れてもらえると感じていくと、だんだん落ち着いてくる。
自分は自分のままでいいんだな、と、クラスというパズルのピースのひとつにちゃんとなっていくんですよね。
そんなパズルにずっとハマってこなかった自分にとっては大変羨ましい環境でございますよw
でもここに至るまでにはやっぱり彼らなりの紆余曲折を通ってきていて。
それなりにトラブルもあるんですが、ちゃんと超えてお互いの凸凹を認め合っているんですね。
私は長男の友達への向き合い方に感動すら覚えていて。
彼には大好きな同級生がいます。あ、男の子ね。
ある日ちょっとした勘違いによるトラブルがあり、先生に呼び出されてこっぴどく怒られてしまいました。
「ボクは話が大きくなるのが嫌なんだ」
と、子どもの関係に大人が出てくるのを最も嫌う息子は「もう〇〇君とは深く付き合うのはやめる」宣言をしました。
と思ったら翌日夕飯を食べながら、
「やっぱり僕は〇〇君が大好きだから、もっと深くつながりたいんだ」と、いや私だってこれだけ生きてきて人生で一度も発したことないというかっこいいセリフを吐きやがり。
次に別案件で問題が起きたとき、「大人に言わないで僕たちで解決しようよ、そうすると成長するよ」とのたまったらしい。
〇〇君も長男のことが大好きで、いつも長男のことを気にかけてくれているイケメン野郎なので、その言葉もちゃんと心で受け取り、それからは何かがあってもまずお互いで解決策を話し合うようになったそうです。
ええ話やあ~と親バカ全開ですみません。
でもね、こんなコミュニケーションが取れたら、そもそもイジメってなに?って話になりません?
市の教育委員会からこんなアンケートが配られたことがあります。
長男の夏休み宿題なんですよこれ。
普段プリントものはほどんど目を通さない放置親ですが、「保護者から一言」書く欄があるから見ざるを得ず。
もうね、長男が書いた答えが明らかに
「こう書いておきゃ文句言われずに通るだろ」
文なわけ。
教えられたとおりの聞こえの良い美辞麗句並べてるだけだから、文法がめちゃくちゃ。
こんなもん先生はダマせても親はダマせません。
「言いたいことはわかるんだけど話がつながってないからさ、もう一回自分の頭で考えて書きなよ。本当にこう思っているんでしょ?」
「…うん」
「別に内容変えろって言ってるわけじゃないんだって、話が通じるように書き直せばって話よ」
「…うん」
消しゴムで消しても、鉛筆進まず。
「だってさ、これ、何回読んでもなんて書いてあるのかわからないんだよ!『どうすれば誰かに話ができるだろう』ってどういうことなんだよ!?」
おお、君、よくそこに気づいた。さすがだね。
「どうすれば、誰かがいじめられていることを誰かに話せるの?」
「…勇気を持つこと?(←模範回答)」
「じゃあそう書けば?」
「…うん」
「誰が?誰が勇気を持つの?」
「……、僕?」
「そう思うんならそう書きなさい」
というわけでこの、取って付けたような回答になったんですがw
そう、わざとなのかそうでないのかこのリーフレットは、「誰が」という主語が、わりとあやふやなんですよ。
長男は幼稚園で、トラブルが発生した時大人を頼らず自分たちで解決することを訓練しているので、『どうすれば誰かに話ができるだろう』などというこの主語のないお題の意味が、本気で何を言っているかわからないんですね。
「いじめを見たときは大人に言え」とは、先生たちが命がなくなるような事態を真剣に避けようとしてくださっているのはとてもわかるのですが、あまり根本的解決にはならないように感じます。
私子どもの頃いじめられっ子最前線だったからわかるけど、大人に言うと問題って地下に潜っちゃってこじらせちゃうんだよね。
いわゆる「チクる」ってやつ。
「自分の言い分を聞いてくれない」は、いじめっ子もいじめられっ子も思ってるわけですから、一方の見方だけで悪者にされるんであれば、当然承服できず矛先はさらに鋭くいじめられっ子に刺さっていきます。
いじめをゆるさない、がすなわち大人に報告しなさい、では、どちらも解決策を自分の頭で考えることをやめてしまいます。
子どもの社会は大人の社会の縮図であるならば、いじめ問題が発生したのなら、大人も、大人自らが自分と向き合うきっかけになります。
この場合の本当の主語である「誰が」は、大人である私たち。
つまりリライトすれば、
「大人がどうすれば、子どもは誰かに話ができるだろう」
ですね。ほら、すっきり入るでしょう?w
というわけで、文句ババアから一言。
「『私は私のままでいい』『あなたはあなたのままでいい』ということを全ての人が受け入れられれば、いじめはなくなりますね。自分を信用し、仲間を信用し、勇気を持つ。自分や人のありのままを認め合える、そういう社会や教育であってほしいと願います。」
自分の属する集団を信用して、ありのままをさらけだせるかどうか。
クラスという集団を信用できている長男のクラスでは、だからありのままを受け入れ合うことができる。
つまり、傷ついた仲間を癒せるのは、仲間だけなんですよね。
親や先生じゃない。
これが「大人を頼らない」という本当の意味なんだと思うんです。
次男の幼稚園もそこをわかっているので、徹底して訓練しています。
お受験でも早期教育でもなく、これが幼少期という一番大事な時に一番訓練すべきことだし、幼少期にやれておけばあとは勝手に自走してくれると、10歳まで育ってこうやって芽吹いてきた長男を見ると思うのですよ。
認め合うということは、固定の「こうあらねばならない」という価値観が薄いということ。
柔軟性があり、そこに競争意識は全くない。
対して先生という世代には、まだまだ「ねばならない」が強い。
しかし次世代の子どもたちにそんな競争は必要ないので私はむしろこのまま好きなことをして過ごしてほしいと思ってます。テストも通知表もいらねえ~
良く言われることですが、自分の真ん中と繋がっていれば、ブレることがありません。
自分の真ん中と繋がるということは、自分の好きなことを好きなだけする、ということです。
長男は放課後になるとうちの仕事場と隣の公園で、毎日真っ暗になるまで同級生と遊びます。(そのあと彼女を家まで送っていくんだけどさ、彼女のカバン持って←まだ言ってるw)
このくらいの年齢になるとイマドキはお習い事や塾で遊ぶ友達が減っていくそうですが、この子らはむしろ友達と遊びたいのでお習い事を減らすというw
友達とアホほど遊び、バターになるまで鬼ごっこをする、今この人たちに本当に必要なのはこういうことなんだなあと感じます。
将来へのアレコレは大人が勝手に後付けしたものに過ぎなくて。
人生は過去でも未来でもなく、今という瞬間の積み重ねだということを思い出させてくれます。
アホだからね、うちの仕事場でかくれんぼしてゴミ箱からガキが出てくるとか、宿題を公園の砂の上でやって真っ黒にしてるとか、ほんとこいつらアホですけどね?
春になったら、釣りが大好きな子どもらのピアノの先生に、船釣りに連れて行ってもらう約束をしています。
今までは次男がまだ小さかったので親同伴必須、しかしダンナも私も乗り物酔いが半端なく(私なんて電車ですら酔う)、船なんてとんでもないと敬遠してたんですが、大きくなったので子どもだけ連れてってくれるという有り難いお言葉♡
私のお友達のお子さんはずっと魚つりばかりしていて、大学はお魚研究室にいるそうです。さかなクン的なw
本当にしたいことをしているその先に、本当にしたいことをする人生が見えてくる。
別にうちの子たちにさかなクンになれとは言わないですが、そうやって人間は自然の一部であることを実感しながら日々を楽しんでいれば、おのずとやりたいことが見えてくるのでしょう。
そうやって仲間と繋がり自らを自然の一部であるということを忘れず心と体で対話をしていれば、狭い世界で小さなことで諍いが起こっても、自らの命を危うくすることもないと、思うんですよ。