反抗期の正体?

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雪国にはあり得ない雪画像ですw

こんなに雪がなくてどうやってダルマ作ったのかと子どもの頃10年ほど雪国に住んでいた私は突っ込みたくなる。

あれですよ、雪国では雪は遊ぶものではなくて戦うものなので、雪で遊んだことなど数えるほどしかありません。

かまくら1回作ったかな?通る人に「なにやってるの?」と真顔で聞かれるw

なんならスキーだって関東に引っ越して大学生になるまで未経験だったもんね。

 

こんにちは~

お元気でお過ごしでしょうか。

世間が騒がしくはありますが、我が家の小5、小1も元気でございます。

学級閉鎖に備え、市からひとり1台支給されているタブレットを毎日持ち帰っておりますが、今のところ学校がお休みになることはないようです。

というか、この子たちは入学以来一度も学級閉鎖を体験していません。

人数が少なくてナチュラルソーシャルディスタンス状態ということもありますが、1クラス5人の規模でもし4人休んだら、残りの出席者がひとりになってしまうわけですよw

「その場合学級閉鎖はしますか?」の問いに、

「ひとりでも授業をやります!」という力強いお言葉を頂いた長男小1の思い出。

雪が降った日学校から電話があったので、これは明日はお休みという連絡かな?と出たら、

「明日は雪遊びをしますから、相応の装備をさせて登校お願いします」

うちの子が通う学校は本当に公立ですか?と小一時間…

 

そんな環境で育った長男も5年生になり、転校生が次々にやってきて、クラスが5人から10人に。

反抗期真っ只中の子も増えてきて、そろそろお年頃に突入です。

あの天真爛漫な長男様がどんなふうに変化していくのか、絶賛定点観測中。

 

それは、

「先生が嫌い」

から始まりました。

あれほど学校が大好きで、人生に「好き」しかなかった長男に、「嫌い」ができた!

私たち彼の親は、今までほとんど彼を「怒る」ということがなかったので、彼は怒られ慣れていません。

それは長男が怒らなきゃならないようなことをしない、というだけで、私たちがそういう方針でも人間ができているわけでも、もちろんないです。

怒られ慣れていないので、少し注意されても、自分でない他の子が怒られても、いちいち真に受けてえらいことへこんでしまうのです。

嫌いになった原因は別に、はたから見たらそこまで極端に理不尽なものでもなくて。

彼の作品に「ケチ」をつけられるとか、渾身の作の書初めにダメ出しをくらうとか、そんな程度。

 

先生が嫌で学校が嫌と泣いて嫌がるようになり、行きたくないとびっしょりと枕を濡らす。

「嫌なら行かなくていいよ」

と言っても、

「さぼるのはダメなんだよ!!」

と。

真面目かよ(゚д゚)

先生が嫌い、から、どんどん、あの子が嫌い、この子が嫌い、と嫌いがたくさん出てきて、ついに世の中の不平不満を言うようになってきました。

年頃といえば年頃、世間で言う反抗期といえばそうなんだろうけど、はて、何が原因でこんなに思考が固まってしまったのかな?

今まで比較的バランスよい物の見方をしていたのが、急に偏ったように感じるなあ?

と、なにかキッカケがあるように思ってて。

 

わかった、ディベートだ!

 

うちの学校では5年生になると、ディベートの授業があります。

最初なので、お題は本当に簡単に、

「あなたは犬派か?猫派か?」

とか

「住むなら都会か?田舎か?」

とか。

それぞれ論客に分かれ、ジャッジ役がついて、どっちの主張がよりわかりやすかったかを判定するもの。

本来ディベートというのは、物の見方を拡げる取り組みであり、二極に分かれた相手の意見を聞く練習をするもの。

こんないいところもあるね、こんな考え方もあるね、と多角的視点を持つことによりお互いに理解を深め合うことを目的とするものですが、「競技」としてジャッジメントがあるがゆえに、

「相手を言い負かす」

という間違った目的を持って勉強しがちです。←私自身が大学の時経験済みw

自分の意見が正しい、相手の意見は間違っている、主張が認められたら俺の勝ち、相手に勝った俺は正しい。

急に正義に偏った彼の目の前には、自分とは正反対の間違ったもの、正しくないものが映るようになり、今までそこまで気にならなかった先生の言動などが、強烈に許せなくなってきてしまった、というのがコトの真相なんではないかと。

 

人がバランスを欠く思考に陥ると、否定したものが目の前に現れる、無意識とはそういう仕組みになっているそうです。

アンパンマンが正義の味方になればなるほど、バイキンマンドキンちゃんが悪さをしてあの村にはいつまでも平和が来ない、という、仕組み。

 

なるほど、これが反抗期ってやつ?

 

人を不幸にするのは物の見方だけ。

第二次性徴期という体が変化する時期でもあり、さらに思考に言語が追い付いてきた年頃で、今まで親や先生にジャッジされ否定されてきたと感じたことから復讐に転じて自分も他者にジャッジを始めるものが、反抗期の正体なんじゃないかと思いました。

長男の担任の先生がそんなに理不尽な先生かというと決してそうではなく、むしろ長男のことはとても気にかけてくださり自由にさせてくれている先生です。

長男が授業中、「眠い」と言ったら、「じゃあ4分だけ寝ていいよ」と言ってくださったそうで、寝ていいとか言ってくれる先生なんて生涯出会ったことありませんけど私っ!!

そんなわけで、長男に、

「ママから宿題!今日から1日3個先生の良いところを見つけておいで!」

ええ~絶対ムリ~~!!

ってブーブー言ってたくせに、1週間もすると、

「最近、先生、マシになった。」

でも、正義に偏っている原因は解決していないので、彼の攻撃はウマの合わない友達に矛先が変わるだけで、彼が振り回されている「大変さ」は変わらないわけです。

 

でもね。

幼い頃体に不快があまりなくほとんど「嫌」がなくやってきた長男には、実は人を浄化する力があると思っています。もしかして親バカだったらすみませんw

人は、自分に「嫌」があると、それを他人に映して攻撃をします。

これが「偏った見方」です。

相手の1%も見えていないのに、そこに自分の嫌なところを映して他人を嫌ったり評価したりマウントを取ったりするのが、人なのです。

つまり、「嫌」があると、相手に「愛」を見いだせなくなる。

本当は自分に愛が見いだせなくなっただけなのに、相手に愛がないと、自分の愛をわかって欲しいと、攻撃を始めるのです。

自分の愛をわかって欲しい、認めてほしい、そうやってお互いに向き合った結果、ケンカや戦争になります。

 

対して、自分がジャッジされる体験がなければ、自分をジャッジしないので、他人もジャッジしない。

ジャッジがなければ、相手のそのままを受け取ることができる。

「わかってほしい」を向けていた相手は、自分のそのままを受け取られたことにより、浄化され、自分や相手に愛を見つける関係に変わることができます。

おかげさまで幼少期の頃より「嫌」が少なかった長男はこうやって、周りを浄化してきたように、私には見えています。

前述した「ウマの合わない友達」も、最近急に丸くなって仲良くなったそうです。

 

今はね、彼にもこの世の生まれた課題を消化する必要があるでしょうから、ジャッジという体験も大事な体験なのでしょう。

だから親としては、信じて観ているしかないのかな、と思います。

過保護とは、親自身が自分を信じられないことにより、子どもも困難を乗り越えられないんじゃないかという不信からくるのだそうです。

まあねー、一生足元にじゅうたん敷いてバラの花びら撒いた上を歩くような生活するんだったら、どこへでもついていって口出して温室育ちにしてもいいんだろうけどね、それじゃ成長しないし逆に子どもに恨まれるだろうしね。

 

受け入れると幸せが始まり、拒否すると不幸が始まる。

という格言がございまして。

私の一生終わらない反抗期は、嫌な体験への拒否(逃げ)から来ていたんだな~と思う今日この頃。

良い体験もそうでないと思われる体験も、ノージャッジで受け入れることにより、自分の人生を歩むという幸せへの第一歩になる、と信じて、見守っていこうと思っております。

反抗期と思われる時期のリスクはだいぶ軽減できているように思うので、やはり身体の不快を最小限に育児できる環境は本当にありがたいな、と多感な年頃を前にしみじみ感じています。

西原先生との出会いに感謝です。

 

亀もびっくりのスローペースではありますが、体に不快のない育児がどのように影響していくのか、これからもちまちまと正直更新していこうと思います。

ではでは、また~!

 

 

 

「できないこと」ができる、ということ

お久しぶりになってしまいました。

師走の候、いかがお過ごしでしょうか。

 

うちのやんちゃ坊主どもも大変元気でございます。

次男小学1年生、長男と同じ学校に通っているので、アタリマエですが長男が1年生でやったことと同じことを反復してくる。

同じことをやっていても、二人で違いがあって面白いです。

うちの学校では、1年生の夏休みに育てたアサガオの蔓をドライにしてクリスマスリースを作ります。

そのためのオーナメントを100均で買ってきて持たせるのですが、みんなと同じじゃつまらん欲の深い母、長男の時はモールでサンタとトナカイを作って持たせ、さて今年の次男はどうしてやろうか思案してたところ。

ずいぶん前に買って放置していたポンポンで作る小鳥キットを次男が探し当てて持ってきた。

「じゃあさ、この鳥さんを作ってさ、リースの真ん中に置いてさ、周りをリボンで飾ったらどうかな?」

「いいね!それやる!!」

と先に大盛り上がりしちゃってからキットを開けたら、これ子どもに作れるレベルのものではなくて( ノД`)、夜なべして私が作るという墓穴を掘る( ノД`)

やっと作って持たせて、できたリースがこれ。

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なんとか飾れるレベルに作ってきてくれて、夜なべが報われてうれしい私…

 

小学校では今年、学芸会も開催してくれました。

パンダが南京玉すだれを披露するという、開会式の「校長先生のあいさつ」。

(一応、校長先生のお友達のパンダ君が応援に駆けつけてくれました体)

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スベったときのために、パンダの大ファンである私に事前にサクラをお願いしようと思ってたと副校長先生に言われ、こんなに面白いことなんで誰もつっこまないんだろうと…ああ校長先生どうかあと1年で良いから転任しないでくれえ~~

 

人数の少ないうちの学校では、2学年ずつ合同で劇をやります。

人前で話すのが恥ずかしい次男様も無事出演しました。

幼稚園の劇ではセリフのない役でしたが、今回はちょこっとだけセリフあり。

ち~いさい声でしたが、無事に言えた♡

終わってから「どうだった?」と聞いたら、

「うん、緊張したよ」

と。

感想を言ってくれる、この人にとってはココ大きな成長ポイントなのです~

今までは、話をそらしたり、なんてことないよ、と言ってにごしたり。

ちゃんと自分の気持ちを自分の言葉で言えたんだね、と、とてもうれしかったです。

君は君のペースで育ってくれたまえ。

 

長男の5、6年生になると、曲決めや演出から照明まで、全て自分でやります。

今回長男のチョイスは、不良役。

選曲に悩んで、

「ねえママ、不良の曲って何があるの?」

「…つっぱりハイスクールロックンロール←昭和」

朝起きたら、youtubeでエンドレスに銀蠅かけて踊りまくる長男の姿が。

「ねえ、ボク、将来不良になるのかな?」

って聞くから、

「若いうちにしかできないんだから、やっとけば?」

と言っときましたと。

 

なかなか5年生というのは忙しいようで。

こんなご時世で行事をできるだけ中止せずにやってくれる学校には感謝しかないのですが、自主性を重んじていただける分、やることがとてもたくさんあって体力的もキツイようです。

ほぼ中休みも昼休みもなく準備に追われ、ひとりずつ脱落していくと、体力のある人に最後のしわ寄せがやってくる…うちの長男w

何に対しても一生懸命なのはいいんだけど適当に力を抜くことが下手な彼は、それでもやることの方が楽しいというので、気血を補う漢方をチョイスするという後方支援くらいしかやってやれることもなくて。

「週に1度くらい休みが欲しい!」

と人生に疲れたおっさんみたいなことを言われたり。

いやまて、サラリーマンだってお昼休み1時間はあるじゃん、中休みも昼休みもないってそれはちょっと、人間がやることじゃなくね?

相手が子どもだと、どうしてこう、打ち出の小づちみたいな、やればできる的な無茶になっちゃうんだろう。

と、先日近くの週末開催のプレーパークに突っ込んでみました。

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「いろんな学校のしがらみを忘れて遊べて楽しかった!!」

とこれまた黄昏たおっさんみたいなセリフを吐かれて。

保護者会でも子どものストレスが溜まっている、との訴えがあり、先生がストレス解消法を子どもに伝えたりしているそうですが、やっぱ子どもは中学生くらいまではこうやって全身使って遊ぶのが一番必要なんじゃないのかなー。

まあ先生も痛風になったりしてるけどね。先生のストレス解消法は苦い水かしらね?プリン体接待でもしていやがらせしてやろうかしらw

 

一生懸命やるのはとてもいいことだし、その方が思い出にも残るし成長するし、ではあるんですが、自分がやればやるほど、目の前には「やらない子」がちらついたりして、それもさらにストレスが溜まってくる原因のようです。

この3次元のシステムは、全てが相対になっており、正反対のことが表裏一体で離れることなく、同じ大きさになるようになっているそうです。

例えば、大きいがあれば小さいがある、表があれば裏がある、正義があれば悪がある。

大きいだけでは小さいはわからず、裏がなければ表は存在できない。

だから、できる、があれば必ずできない、も同じ大きさで存在する。

片っぽだけに世界を染めることは絶対にできない。

陰陽のバランスですよね。

「良い」を目指して頑張れば頑張るほど、同じ大きさで逆のものが目の前に成長してくるのが、抗えない宇宙の法則だそうです。

 

私たちはなぜこの世に生まれてきたかというと、魂の成長のため(宇宙は成長しつづけているから)。

つまりこの世には、すべての体験をするために、生まれてきた。

すべての体験ということは、「できる」という体験もそうですが、「できない」という体験もまた、貴重な体験である、ということができます。

「できる」か「できない」かは、個人の勝手な価値観によるジャッジであり、時や場所やシチュエーションでコロコロ変わる不確かなものにすぎません。

宇宙目からみたら、「どちらも同じ」貴重な体験。

なのに私たちは人間特有のジャッジにより、「できる体験」を良しとし、「できない体験」を良くないものとして、避けたり抵抗したり、出来ない自分を否定したりします。

それがそもそも人間の根幹の苦しみだったりするんですよね。

できない自分へのコンプレックスから、親が「教育虐待」をしてしまうことは、普通にあることですよね。

それだけ親御さん自身が子どもの頃に、「できない」を認めてもらえず親や学校からのジャッジや否定で苦しんできたのでしょう。私も例に漏れずですが←昭和臭

 

学芸会でお疲れの長男様に言いました。

「できないこと、が、できる、って、すごいことなんだよ。」

ちょっと考えて、

「…僕は、できないこと、は、できない。」

と言われてしまいましたが(;´Д`)

 

そんな話を最近ちょくちょくするのですが、横でじっと聞いている次男が、

「僕、ポジティブとネガティブって知っているよ、僕はポジティブの方が好きだよ。」

と。

通級でそういう自分を見つめる訓練をするのでしょうね。

自分には、ポジティブだけでなくネガティブもある、両方を俯瞰してどちらもあると認識し、でも僕はポジティブの方が好きだ、と言える。

客観的に自分をとらえて「できない、をできる」視点を授けてくれているんですよね。

だからこそ、他人のできる、できない、を受け入れることができる。補い合える。

さすがプロだなあ~

 

静な次男に対し、動な長男は動きの幅が大きい分、日々の体験もとても大きいです。

そこもバランスで、どちらが良いとか本当に言えないですが、どちらもそのままのあなたでいい、とほかならぬ親に受け入れてもらえる体験が、これからの人生でどんな体験も恐れることなく味わっていけるのでしょう。

できない、が、できないと思っている長男も、そのうちできないことも必要な体験なんだ、と彼自身が学ぶでしょう。

世界中のすべてのことを、自分でできるわけがないんですから。

 

最近長男一派は、近くの児童館で放課後バスケットボールをすることが多くなりました。

5年生になってやっと鬼ごっこから男子らしい遊びに進化したか?

私、男子のバスケットボールって大好きなんですよね、パスがスムーズで、見ててとても気持ちがいい。

やっぱ動体視力が違うんだよね、とダンナと話してて、男女は筋肉量が違うから仕方ない、と言ったら、長男が、

「えー違うの!?そんなわけないじゃん!!」

お前はまだ雌雄同体か。

「女の方が筋肉少ないの?そんなん、損じゃん」

「損かどうかはそれこそ考え方でしょう?」

どうしても現代は競争社会なので、「できること」が良いこと、と捉えがちですけどね。

女性の柔らかさ、産み育てる力、そこの価値に目覚めるのはまだまだ先なんだろうな。

ま、どうせね、今は暇さえあれば兄弟でうんこちんこ叫んでるけど、あと数年もすれば巨乳が良いとかナマイキ言ってるんだろうからさ~

染色体1本足りない生物が2匹、生暖かく見守っていこうと思っておりますわ。

 

では、また~

良いお年を、かしら?

今年のサンタも財布が大出血で参ってまーす。男子二人でトランスフォーマーにハマるのはやめてほしいなっと。

 

 

 

 

 

進路~得意なことと好きなこと~

こんにちは。皆様お元気でお過ごしでしょうか?

秋の行楽シーズン到来ですが、子どもたちも色々な学校行事をやんごとなく開催して頂いていて、先生たちの並々ならぬ努力に本当に感謝する毎日です。

 

次男1年生は、地元のバス会社へ「バスの乗り方教室」へ行ってきました。

長男も1年生の頃に行ってるんですが、「にしちゅん」とかいうスズメを装ったゆるなキャラクターが描かれているレアバスが市内に2台しかないとか3台しかないとか、ボクは乗ったとか乗らないとか、バスにピンポンがいくつあるとかお土産にノートをもらったとか、兄弟で若干競争心ベースながらもこういう共通の話題を話せる年頃になったんだなあと感無量w大人はバスどんな柄かとかなんて正直どうでもいいのでww

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長男5年生は、清水へ移動教室へ。

子どもらが観光バスに乗り込んで「いってらっしゃ~い」と手を振ってふと、保護者より誰より先に、校長先生が泣いてるっていうww

大好きだよもううちののりまきせんべい校長先生!!

台風が近くにいながもお天気が良く、ずいぶん前からこのイベントを恐ろしく楽しみにしていた長男はハイパーご機嫌でテンション高くて大変なことに。

そりゃそうか、初めてのお友達とのお泊りだもんね。

今の教育は小学校でも「自分たちで創ること」に重きを置いて行事をするせいか、彼らの移動教室への作り込みがハンパなくて、行事後の先生自作のDVDを観てもできる限り子どもたち主体で動いているサマがよく見て取れました。

私が小学生だったカンブリア紀には、行事は先生の言うことを聞いて動けるかどうかのチェックみたいなもんだったから想像がつかない~つか担任の先生がビデオ撮って編集して配ってくれるとかなんていい時代なのか(゚д゚)!めっちゃうれしいぃ~

 

小学校は去年から、中学校は今年から、20年に一度の学習指導要領の改変が行われました。

今までの「受け身」な教育から、子ども主体への教育へ、ほとんどパラダイムシフトのような激変ぶり、だそうです。

学校がそこまで変われば、大学や受験制度や、学校の評価方法や試験まで、さらには私たちの教育への捉え方やどんな子どもをめざして教育するのかまで、すべての価値観がガラリと変わることになりますね。

平たく言えば、今までの偏差値一辺倒の価値の置き方が変わるので、改変にむけてあらかじめ準備してこなかった学校などには混乱が起こっているようです。

今までならA=Bだよ、と教えられそれを覚えてテストで書けばそれが点数になったんだけど、「なんでBなのかみんなで考えましょう」という授業になるわけですよ。

それどうやって点数つけんの?って話になります。

今までの方法で点を取ってきた子は当然混乱しますし、学校や塾はどのように子どもたちを指導すればいいのか、大変換を迫られることでしょう。

 

5年生ともなれば、「進路」という問題がでてきますが。

うちの子たちは小中一貫校に通っているので、そのまんま普通にしていればお隣の校舎へ移動するだけw

一貫校なだけに雰囲気も先生も良く知っているので、子どもも親もそこはあまり不安はありません。

周辺の学校では、もっと低学年から塾に行って中学受験に備える子もたくさんいます。

私たちの住む地域で一番「偏差値の高い公立中学」は中高一貫校なので、そこに行くためには中学受験が必然になり、狙っている子はみんな塾通いをしているそうです。

長男のクラスでも少ないですが何人かは受験を狙って、塾に行っている子もいます。

 

「ねえママ、ボクはどこの中学に行くの?」

「好きなところに行けばいいんじゃない?うちの中学じゃダメなん?」

「わかんない」

「なに、頭良いところへ行きたい?」

「行きたいといえば、行きたいよ」

「頭良いところって何するか知ってる?」

「知らない」←オイw

「ずーっと勉強するんだよ、自分が好きな勉強だったらいいんだけど、あんたが大っ嫌いな宿題とおんなじことをずっとやるの、ほんでそこに行くためには学校から帰ってきたらお友達とは全然遊べなくてお弁当持って夜9時くらいまで塾へ行って大っ嫌いな宿題と同じことを延々をするの、それでもその中学へ行けるとは限らないんだけど、行く?」

「……じゃあ、いいかな……」

 

とまあ、そんな程度でw

何が良いか悪いか、どの学校が良いか悪いか、なんてのは本当に狭い概念でしかなくて。

大人側が入れなければそもそも存在すらしない了見でしかない。

ちょっと前までお隣の校舎に行っておりがみクラブに入る気満々だった長男になぜ今こういう疑問が出てきたかというと、塾へ行き始める子がポツリと出てきて、そういう概念が彼らの教室まで届いてきたから、でしょうね。

生まれたときはみんなまっさらなんですから、最初から「あそこの中学が良い!」なんて思いながら産道から出てきてたりしないもんね。いたら怖いわそんなガチ赤んぼ(゚д゚)

 

私自身がガリガリの偏差値教育世代で、「どんな田舎でも誰でも知ってる有名大学へ行くことが人生の目標であり成功である」という教育の申し子みたいなもんでしたが、何か得られたかと言われたら、なにが本当にしたいことなのかすらわからず言われるがままレーンに乗りました、という感想でしかないので、自分で選んだという自覚はありません。

私ね、めっちゃ頭の悪い子どもでした。

20年学校というところへ通ってて、一度も授業というものを聴けた試しがない。

授業中何をしていたかと言うと、延々と落書きをしていた。いるでしょ、教科書の端っこでやたら精度の高いパラパラ漫画を制作しているやつ。アレw

全く授業を聞かず頭の悪い子どもだった中学のあるテスト前に、ふっと、オリジナルの勉強法を編み出し、ほとんど底辺からいきなり10指に入る順位まで爆上がりしてしまった。

親も先生も手のひら返し。

「……人生、チョロい」

と思ってしまったうら若きおしげさん、仕方なし。

そんで4大行ってなんとなく就いた仕事が美容師ですから、学校の勉強が人生で必要とかできるとどうだとか、全くハナから信用していないのでした。

 

これはもう、現代社会にいる以上仕方のないことだと思うのですが、学校であれ社会であれ、今は、「競争社会」、人より優れていることを良しとするので、人生の目標を見失うように仕組みがなっています。

私たち親世代は競争社会が骨の髄までしみわたっているので、子どもの将来や人生があれこれ心配で色んなサポートをしようとします。

子どもは親を喜ばせたい存在なので、一生けん命期待に応えようとします。

心配の末教育虐待にもなりかねず結果、親も子も行き着く目標を見失う。

 

よく、

「得意なこと好きなことは違う」

と言われます。

人より少し上手にできると、つい私たち親はほめてしまい、そこに才能があるんじゃないかと期待します。

本人も、人よりできるから、これで将来やっていけるんじゃないのか?って思います。

例えば絵が上手で、親や周りから褒められて、じゃあ自分は絵が得意だからと絵画専門の学校に行くことにする。

するとその学校には全国から集められた「人より絵の上手な人」だらけになるので、そこでは自分が「人より絵の上手な人」という大前提ではなくなってしまう。

それでも本当に絵を描くのが好きだったらいいのですが、動機が「人より絵が上手だから」だと、目的を見失い心が折れてしまいかねない。

「人より上手だから絵描きになろう」は動機の物差しが外にあるから、同等もしくは自分より得意な人が現れれば、永遠に競争をしていかなければならないので、その勉強や仕事は苦痛にしかならない。

対して、「好きなことをする」というのは、上手下手は一見関係ありそうに見えますが、実は関係ありません。

めっちゃ歌が好きで、でも音痴で、という歌手さんは実はけっこういらっしゃるんだそうです。

好きだから、歌を歌いたくて、自分を歌を録音して治して練習して歌手になりました、という人。

そういう人は動機が「好きだから」なので、自分より上手な人が出てきても関係ないし、落ち込むこともないですよね。

私も20年以上授業中落書きをしていたせいで、絵だけはそこそこ描けますwなんなら先日の自動車免許違反者講習2時間中も絶賛落書き三昧でしたww

 

「そんなねえ、理想論でしょ、好きなことが仕事になればそりゃ苦労はしないわよ」

ええまさに、その通りですが、そのバラ色の人生を歩む可能性さえ摘んでしまうのが、「人よりできることを良しとする」概念ですよね。

好きなことに好きなだけ取り組める環境を大人が全く提供していない現状で、好きなことを発見するきっかけを与えず、自分の心配や不安の払しょくのためだけに子どもを強制的に争いの道へいざなっていないかな、ということですよね、自戒も込めて。

もちろんものすごーーく勉強が好き、とか、どうしても●●になりたいからそのために、と言うんなら全力で応援しますけども。

長男が頭抱えている5ケタ÷4ケタのひっ算なんてこの量子コンピュータが稼働している現代に必要とはどうしても思えないのに、それが彼の人生を左右する「評価」になったりする。のであっさり「答え見れば?」と言ってしまう私ww

 

この3次元世界に「愛」はない、そうです。

「愛情」なら、あります。

愛情、とは、「愛している」という仮面を被った支配であり、コントロール

人間はみんな、愛情に苦しんできました。

愛情は憎しみに簡単に振れる。

みんな、愛情は大っ嫌いだけど、愛は欲しい。愛が欲しくて愛に飢えて、求め続ける人生を送る。

というのは、反抗期を迎えた子どもや自分自身の人生を振り返ってみても、心当たりのある人は多いんじゃないでしょうか。

でも愛情をかける側は「正しい」と信じて疑わないので、相手を蹂躙していることに気づかない、愛情とはとてもとても厄介なシロモノです。

見守ること、受け入れること、相手を変えない事、ありのままを認めること、これが支配のない愛であり、神の愛そのものだそうです。

我々親はつい、愛情をかけて自分自身の心配や不安を「子どものため」に変換しコントロールしてしまいがちですが、どれだけ子どもを見守り待てるか、という「愛」が、子どもを解放し、自信を持たせ、その子らしい人生を歩ませることになる、そうです。

 

愛情からの脱却、支配からの解放、が、すなわち「好きなことを発見させる」のであれば。

そういう概念からの解放、と捉えれば、今回の学習指導要領の改定は、非常にチャンスなんじゃないかなと、思います。

私たちひとりひとりが過去にも未来にも宇宙にも同じ人はひとりといない、唯一無二の全く違った個性を持つ存在であるならば、「好きなことの発見」はできないことでは決してありません。

これは信じる人も信じない人もいるだろう話ですが、「宇宙文明」での子どもの教育は、好きなことを徹底して探し、決めたらそれに関するデータを直接脳にダウンロードするんだそうです。

昨今の科学技術の発展を鑑みるに決して荒唐無稽な話でもないだろうし、もしそのような時代が到来したら、自分で選ぶ生き方をしてこなければそれこそ大混乱に陥る気がします。

 

そして、これからの時代に問われるものは「人間性」。

リア充自慢では決してないでしょう。

社会が成熟しきってむしろ行き着くところまで行き詰った感のあるコロナ後の世界が、今までと同じ価値観で動くはずがないように感じます。

人間性を養うのに一番大事な時期である小学生~中学生の時間をどう過ごさせるのか、我々親がどう見守り待てるのか、価値観のシフトチェンジができるのか、そこがカギのような気がしてます。

 

という壮大な言い訳のもと、塾通いなんて面倒なことは全力で忘れていただき、お隣の校舎で青春を満喫してください、と画策する今日この頃ですw

給食も美味しいしね、親友もいるしね、是非楽しい思い出を作って欲しいもんです。

なんかね、私、変な自信があるんですよね、苦労したり心配したりしなくてもこの子たちは絶対自分たちで自分の道を見つけて歩くだろうっていう。

芯が、彼ら自身に繋がる目が、曇っていないんじゃないかって。

身体がクリアな分、親の心配エリアが狭まるんですよね。

その辺も西原式育児をやってきた成果かなあ。

だからなるべくお口にチャックして、後方支援に徹しようとおもっちょります。

 

これ、最近大好きな動画です。

どこの学校のなにかも誰かも知らないんだけど、私一人で再生回数回してるw

この男子どもがめっちゃ青春堪能してて好き♡

うちの子たちももう数年もすればこういうおバカ男子に成長するんだろうな、と思うと、楽しみでしょうがないですww

 

ではまた~👋

 

 

 

 

 

 

 

宿題問題!!

連日お暑うございます皆様、いかがお過ごしでしょうか。

お見舞い申し上げますことよ~

アレですよ、やたらめったらウナギが食べたくて仕方ない。

ウナギはこの季節の土用丑に食べるのが一般的ではありますが、ちゃんと理由がありまして、ウナギやタコなどの「巻き付きもの」は人体の命の源である「精」を強力に補充してくれる、とても優秀な食材なのです。

この時期の、暑くて暑くて血と同等に大切な身体の水を「汗」として消失してしまった屍寸前の体に、ウナギで精を補充することは大変理にかなっておるのです。

どこ産だろうが関係なく美味しく食えればいい私は、スーパーで買ってきたウナギに日本酒を垂らして時間を置き、グリルに入れて弱火で焼きます。

こうするとですね、お安いウナギでも柔らかくてふわふわなウナギにありつけますのよ♡

1シーズンに一回くらいはちゃんとしたウナギ屋さんで食べたりもするのですが、特に次男あたりから「おかわり!」とか言われるとこちらとしてもちょっと鼻血がたれるので、あまりお財布が痛まない方向でライフハックを会得していきたい。

ちなみにこの「精」をつける世界のトップランナーは、実はユンケルにも入っているという「タツノオトシゴ」だそうです。確かにシッポ巻いてるなあ…。

 

夏といえば、夏休み。

このクッソ暑いのに小刻みなナントカ宣言で、お子様がたの気を紛らわすこともできない全国のお母様がた、こちらもこころよりお見舞い申し上げます(;´Д`)

そして夏休みといえば、宿題ですねえ。

うちの子どもたちはなぜか毎年、自由研究をするのを楽しみにしておりまして。

特に長男が、アンタほんとにそれ作るつもり?な壮大な計画を立てては、本人の想像よりちょっとしぼんだ完成品を展示しているのが薄く面白かったりしてw

今年も大風呂敷を拡げては、結局何を作るか決めてないまま、帰省してしまった。間に合うのかしら~

次男は、長男ほど絵心があるわけではないのですが、例に漏れず工作や実験が大好き。

本で読んでどうしても作りたかった「光の3原色」の実験を、さすがにおひとりさまでは無理なので、お手伝い。

3色の発光ダイオードボタン電池をつけて、アルミホイルを巻いたプラスチックカップに入れて色が白くなるのを見る実験なのですが、バラバラになるLEDとボタン電池をどうやってセッティングしてプレゼンするのか、頭を悩ませていたところ、こんなん作ってきた。

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おおこれは素晴らしい案だ!お前もやるなあ~~

君のこういう発想力、大好きだ~~

 

長男様も5年生。さすがに宿題が増えてきました。

5年生になって、ひたすら同じ漢字を書き続けるとかクソ面倒くさい筆算とかを延々とやらされる宿題になって以来(他校ではもっと低学年からそういう宿題が出されるようなのですがうちでは今頃始まった)、あれだけ学校や勉強が楽しかった長男が大嫌いになってしまい、学校も行きたくないと言い出す日も出てくる始末で、どうしたもんかと思ってた1学期。

まーでもそうだよねー、そんな愚にもつかない、ゴビ砂漠をホウキで掃くような宿題が楽しいわけはないし、無理やりイヤイヤやらされていることって1ミリも身につくわけはないのでね、すぐ

「やりたくないんならやんなくていいよ」

と言ってしまう私。

でもそう言えば言うほど「やんなきゃダメなんだよ」と泣きながらやるんですよ、マジメだわあアンタ〜

人生で一番楽しいこの時期をゴビ砂漠労働で台無しにする方がもったいないじゃん。

それでなくてもすでに量子コンピュータが稼働しているこの現代にこの筆算ができることが必要な教育とはどうしても思えないし、私だって筆算なんかすっかり忘れてるけど昭和からうちにある計算機でなんとかなってるぜ?

「あんだけ毎日漢字書いてんのにテストで間違ってるんだよ、それ全く入ってないってことじゃんね?」

とママ友も言うw

 

 「何かひとことを」

と、学期末の保護者会で促されましたので、このゴビ砂漠問題を投げてみました。

するとしばらく考えた先生は帰りがけに、

 「翼くんは自由課題にしてみましょうか?」

と。

2学期から、それができる子は順次自由課題にするつもりだったらしいのですが、そこまで嫌なら前倒ししてみてもよい、と。

 

えーそんな融通が効くわけーマジかーー!

 

と大感激大感謝だったのですが、本人に伝えると何故か大泣きして、嫌だ!と。

何がそんなに嫌なのかと聞いたら、怒られる、と。

どうやら現状に不満を言うと怒られると思い込んでるらしい。

私が、今まで怒って何かをさせるということほとんどしてこなかったので、「怒られる」という行為が自分の何を指摘されているのか分からず、過度に反応しているようです。

 

人は「ありのまま」でいることを否定されることが一番、どう存在していいかわからなくなるそうです。

イコールそれが「評価」を運命づけられている現代の教育の姿なわけで。

「褒めて育てる」も一見イイコトのようで評価基準になるので、同じように存在の否定につながるわけですよ。

 

ほんでどうなったかというと。

 ひとしきり泣いた後、

「わかった、明日先生にそれはしなくていいです、っで自分で伝える」

その時の先生の応対が、

「いや、2学期からみんなでやるつもりだから、試験的に翼くんがやってみてみんなができるかどうか試してみてくれないか?」

それだったらオッケーということで、あっさり丸く収まりました。さすがだなあ〜

というわけで、もうすぐ夏休みに入るあたりから、彼だけ自由課題になりました。

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自由が爆発しておりますw

 

ゴビ砂漠労働は、言うても20分くらいで終わるものなのですが、自由課題になったら余裕で3倍も4倍も時間がかかっているw

なんなら「きょうの宿題なんにしよう」とずっと考えているので、いきなり寝る前にカブトムシを獲りに行く日もあったり。

でも「楽しかった!」と本気で言っているので、この方が彼の血肉になることは確実でしょうね。

 もちろんゴビ砂漠で点を取るタイプの子もいるので(むしろ私がそういう子どもだった、自由にやれ言われたら逃亡する)、そこは子どものタイプに合わせてフレキシブルに対応できるのが理想ですよね。

人数が多いと先生の負担も増えるからなかなかそういう個別対応は難しいでしょうけども。

大きな学校から転校してくる子の中には、あまり勉強をわかっていないまま見過ごされている子がいたりもして、そういう子たちは1年生の宿題を出してもらったりもしています。

このクラスの子どもたちは、ひとりひとりが違ったことをやっていても誰も気にしないし受け入れてくれる、と先生も助かっているそうです。

 

個人面談で宿題問題について、

「公立の学校でこういう対応をして頂けるなんて本当に光栄です」

と伝えたところ、

「いやいや、私の方が考え方を変えればいいだけの話なので。」

と言ってくださいまして、本当にびっくり貴重な先生です。体育会系の元花園ボーイなのに!

アツい先生で、個別対応で放課後生徒と将棋をさすような、ひとりひとりに真剣に取り組んでくださっている方なので、「学校に行きたくない」と思わせるのは一番辛いことだ、と思われるようです。

今年は学習指導要綱の10年に1度の改革があり、従来の暗記スキル中心の勉強から、討論や「自分はどう考えるか」を問われるやり方にガラっと変わったそうです。

例えば社会科で、「お米農家の跡継ぎ問題が深刻らしい」「日本のお米の消費量が下がっているらしい」というお題を投げて、さあ討論しましょう!という授業を実際にしているそうです。

教科書に答えなんかどこにも載っていない。

自分の考えとみんなの考えをあわせ、結論を導いていく。

私たちのころには考えもつかない授業で、本当にそんな時代になったんだなあ。

そんな中で、

「よし!みんなでお米パーティをしよう!!」

と言える長男が、誇らしいですw

幼稚園時代から自発的に動き、「みんなで考える」ということを当たり前のようにやってきた環境にあったからこそ出てくる発想なんじゃないかな。

こういうのは友達とめいっぱい遊んでコミュニケーションを取り日々を楽しんでないと身に付かないスキルなんだろうなと思うので、やっぱり放課後友達と遊ぶ権利を子どもから奪ってはイケナイ、と心底思うのでした。

 

次男様も1年生の1学期が終わり、個人面談がありました。

長男の時とは違ってクラスには15人「も」いるのですが、これが彼にはちょうど良い人数らしく、気張り過ぎることもなくいい感じで過ごせているようです。

なにより先生の話を聞いていると「彼らしく」ふるまえているようなので、担任の先生の「場作り」がとても上手なんだろうな、と。実際とても落ち着いたクラスのようです。

相変わらずマイペースなので、休み時間クラスのみんなが校庭で遊ぶことになっても、自分は教室でゆっくりしたい気分だと思えば、ちゃんとそう伝えてひとりで過ごしたりしているそうです。すげえなその勇気1割でいいから私にくれw

一日の時間割を見て力配分をあらかじめ考えるような子どもなのでw、気持ちにアップダウンがなく非常に「凪」です。

このくらいの年頃だと男の子はまだやんちゃな子がいたりして、成長の速い女子には脅威だったりするんだけど、ふと見ると、無害な男子がひとりいる。

あそこにいれば安全かも?

担任の先生が将来を心配するほど、うちの次男は学校ではモテているそうですww

 

というわけで近況でした。

公立学校の宿題問題って、結構あちこちで深刻な話を聞きます。

量が多い、つまらない、子どもがやりたがらない、学校や勉強が嫌いになるetc…

逆に「宿題なんて全く意味がない」と学校で丸ごとなくしてしまうところもあるそうです。

どちらが良い悪いというものでもないですが、その子その子にフィットした形であれば宿題もとても有意義なものになるんだろうなと思います。

その前に日本の教育システムが、人間らしく育てようという方向に変わってきているのがとてもうれしいです。

長男が成長する頃には、人間は好きなことを好きなだけやることが最も幸せで生産性も教育効果も高いことが周知され反映される社会になっているといいな。

 

ではではまた~~

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

それぞれの成長

どうもどうも。

皆さまお元気でお過ごしでしょうか。

我が家の5年生、1年生も毎日元気に学校に通っております。

1年生の次男は学校が楽しいそうで、先日珍しく「今日は楽しくなかった」なんていうからどうしたって聞いたら、「給食でサラダが出た」。

あっそう。サラダじゃなかったら?

「サイコーだった、カレーだったし。」

じゃあサイコーだったんじゃねえかそこの記憶データ書き換えられて良かったわ、と思ったので一日の終わりに感想を聞くのは幼少時代の記憶をなるべくポジティブに保つのに有効かもしんない。つーかお前の一日の判断基準給食かよって。

ちなみにうちの学校の給食は大変美味しいそうで、他の学校から転任されてくる先生たちが一様に感動してくれるらしいです。

うちの学校は小中一貫校なんですが、給食室は小学部にあるので、お昼になると分校舎にいる中学生がぞろぞろ小学部にやってきて給食を食べるっていう~

うちでは豆一粒食べない肉食長男が学校の給食は残さず食べるから野菜嫌いが先生にばれていないらしく、ちぇって感じ。

 

前回触れた次男の通級ですが。

こちらも大変楽しくお通いあそばしていらっしゃいまする。

最初はどんなことするのかなあという不安もあったようですが、行ってみるとただただ楽しいし、「通級がある日は一日が早く終わっていい」んだそうでw

そうだよね、若干6歳やら7歳で1日中ずっと座って黒板見ていることがアタリマエなんて、私たち大人の感覚の方がおかしいわ。

友達で小学校時代はオーストラリア在住だった人がいるんですが、4年生までは決まった机すらなかったそうです。うん、それが自然だと思う。

先日の通級では彼の大好きな工作をやり、その時作った「飛ばすUFO」は、「人に向かって飛ばさないと決めた人だけ持って帰れるんだよ」と嬉しそうに次男が言ってて、誰も否定しないし押し付けない、自分で決める力を促す素晴らしい指導だな、と感動しました。見習おう~

というか、私が住む市の通級は本当に素晴らしいそうです。

ひとえに星山先生ご尽力のおかげ。

他の市に引っ越した同じ園出身のママ友によると、そこでは「通常クラスについていくための通級」という位置付けだったらしく、母の目的地とはかなり違ったので、見合わせたそうです。

ひとつの価値観に揃える教育ではなく、みんな違ってみんないいが実現できる世の中になるといいな。

と、ここで映画を紹介しておこう。

私たちの運営するオンラインサロン「アンテナ」で自主上映会を行ったばかりです。

ひとりひとりがそのままでどれだけ貴重な存在なのか、どれほど私たちひとりひとりがオンリーワンの存在であるのか、言葉でなく体に入る体験ができる映画でした。

観終わった後のシェア会はみんな言葉が出なくて全く盛り上がらないというw

「1/4の奇跡」→ https://iriefumiko.com/1_4/

オンデマンド配信はこちら→ https://vimeo.com/ondemand/yonbunnoichi

 

おかげさまで次男はすっかり、我が道を行ける男に成長しつつあります。

先日ワークショップで革のキーホルダーをお作りあそばしたのですが、2時間みっちりほぼひとりで仕上げる集中力と、どんだけ利便性を説いても絶対に自分のオリジナルデザインを曲げない固い意思が育っておることを改めて確認しましたよとwランドセルに付けるオプション金具をあれほどつけたほうが良いとアドバイスしたのに…

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 ちょっとセンターがずれたけど、穴あけデザインの彼のオリジナルです。たくさんの見本を出してもらったのに、どれも参考にしない感じの悪いやつ。

↓ちなみにこちらは、長男の作品。ばあばとねえね(ダンナ妹)にあげるんだって。

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こういうところもキャラが全然違うんだよなー

 

5年生になった長男の方は、思春期突入の年齢らしく、転校生の増加も相まってクラスに色々と波乱が起き始めているようです。

今までの生ぬるいお風呂に突然の冷や水投入にわあびっくり!的な、でもそれも彼らが選んだ必要な体験だしね、私たち親は見守るしかない。

ここが例えばオルタナティブスクールだったり私立の学校だったりすれば、わりと「似たタイプ」の子どもたちが集まったりするんだろうけど、うちの学校は団地も低層も入り乱れた、家庭環境もほんと様々な子どもたちが集まる公立学校です。

だからいろんな子どもたちがいて、いろんな価値観があって、その中で認め合ったりときには否定しあったりして、楽しい時もあればしんどい時もあり、特に5年生という立場が勉強や宿題が増えたり学校での責任が大きくなったりで、「さすがにキャパオーバーかな?」と思う時も多々あります。

そういう時、親としてどう在ったらいいのかな?と、この私でも少しは考える。少しだけど。

自分が子ども時代を思い返してみて、一番の宝物&一番の悩みどころは、友達関係でした。

勉強なんて1ミリも覚えてない。なんなら長男のひっ算やれ言われたら左巻きで瞬足で逃げる。

やっぱり友達関係を、良くも悪くも命いっぱい味わわせることが、彼の人生を形作るんじゃないかな。

と、放課後は学校にほど近いうちの仕事場で、友達と勝手に遊べる環境を提供しています。イマドキ子どもらが集まって遊べる環境ってなかなかないですもんね。

「全面的に信用」しているので、全てを彼に任せている。

私がぎゃんぎゃん言わなくても、友達たちもちゃんとルールを守って遊んでおりますね。

ぶっちゃけ心配な友達関係もありますけどねもちろん、あえて口を出さない。

私は感情の受けとめ場に徹しようかな、と。

 

よく、親は説教するんでなく子どもの話を聞け、とか感情を聞け、とか言いますよね。

わかるけど!わかるけどさ!という場面に何度も遭遇するのが子育てというもんだと思いますがw、なぜそれが効果があるのか、を説明する方程式に最近出会いまして。

 

人はそれぞれひとりひとり、「男性性」と「女性性」を内包しているんだそうです。

このバランスが全てこの宇宙の根源だと。

女性性は感情を司り、男性性は愛することを司る。

内側の女性性が愛を受け入れないと内側の男性性は存在できないし、男性性は内側の女性の話を聞かず解決策ばかり講釈垂れれば、内側の女性性は愛されていないと感じてしまう。

その内側の男女の関係がそのまま外側の関係に反映されている。

いうよね、男性は解決脳で女性は共感脳だって。

その両性を皆がひとりひとり内側に持っているんだそうです。

女性の話を聞かない、はつまり、「感情を感じてあげないこと」。

寂しい、悲しい、辛い、などの感情を、内側の男性性は、「それはこうやってごまかせ、こうやって我慢しろ」と言って話を聞かないわけで、これで自分の感情がわからない人間ができあがってしまうのだとか。

お金のために我慢や競争を教育されてきた現代人は、男性も女性も内側の女性性がないがしろにされている。

真の「男尊女卑」ですね。エリート意識や女性の自立を国やメディアが煽れば煽るほど、男女の同権からどんどん遠ざかる。

そもそも「若干6歳やら7歳で1日中ずっと座って黒板見ていることがアタリマエ」なんて我慢をこんな幼いころから強要しているんだしね(;´Д`)

自分の中の男女のバランスが偏っているので、自分がわからない、感情がわからない、生きる喜びがわからない。

これが不幸せの大元になっている。

ゆえにこれからの新地球は女性性の復活が最重要な時代に突入するんだそうです。

私は息子の話をつい自分の男性性で聞いてしまい、「それはこうしたらいいんじゃん」と頼まれもしないのに解決策ばかり提案してちゃんと彼の内側の女性性である感情を聞いてあげてなかったな、これでは息子の女性性が存在できないから愛されていないと感じてしまうかもしれない、と気づき。

こういう機序で「とにかく話を聞く」ということがどれだけ大事かということが、ようやく腑に落ちました。

長男だけデートに連れ出し、ただ一緒にお茶とケーキを食べながらゴジラの話とか聞いているだけで、何をするわけでもなく彼の中がすっと落ち着き、バランスが整う感じがします。

そして相手は自分の鏡だから、相手の話を聞くことで自分の中の男女のバランスも整うわけですね。

これが親子共々思春期というものを味わうコツなのかな、とも思ったりします。

願わくばゴジラブームは終わって欲しいところだけどさ(;´Д`)ミニラの顔が坊さんぽいとか知らんがな~

 

保健体育の授業なんかも始まって、あの、ひたすらおっぱい飲んでた子がいよいよ人として一歩を踏み出してきたなあと思うと感慨深いです。

そりゃ親としてみれば怖いこととか嫌なことからはなるべく守ってやりたいし起こって欲しくないというのが正直なところではありますが、良いこともそうでないことも体験しにこのエキサイティングな地球に生まれてきてくれたわけですから、ひとつひとつを丁寧に味わおうと向き合うのが一番効率的な地球ゲーム攻略法な気がします。

親子の関係が人生の思考の全てを創ってしまうらしいですしね。

我が家では今年もまた、うちの屋根の上から目も開いていないムクドリのヒナが巣落ちしてきまして、育てて先日空へ還しました。

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あれだけベッタベタの甘えん坊だったムクちゃんが、外へ出しても怖がって私の肩から離れなかったムクちゃんが、全てが満ちて整って彼的に「スタンバイOK」になった時、全く後ろも振り返らず何の躊躇もなくまっすぐ仲間という「全体」へ合流していきました。

残された私たちはムクちゃんロスに陥ったわけですが(´;ω;`)

心配は尽きないですよ、ちゃんと自分でバッタ取って食べてるかとか、ちゃんと寝床は確保できているのかとか、猛禽にやられてないかとか、ヨソサマの頭にウンコ落としてないかとか。

でもね、たまに洗濯物干してると電線の上にやってくるムクドリが「…あれはムクちゃんかも?」と思う時があって、彼女(彼氏かもしれんが)連れだったりして、まあヨロシクやっているんだなとw

この先はどれだけ心配してもどうにもならないこれがムクちゃんの選んだ人生であって、ここまでどれだけ向き合ったかがすべての「やり切った感」であり、お互いの真の自立であり。

人間の子育てもこんな風にやり切れたらサイコーですけどねー

 

ちなみに学校では家庭科の授業も始まり、明日の調理実習が地獄だとテンション下がってるから、「なんで?」と聞いたら、茹で野菜を作って食べないといけないからウツなんだそうでw

相変わらずの肉食男子でしたと。

夕飯のメニューが魚で家出した中学男子の話があったけどな、うちも今のうち覚悟しとこう~

 

それではまた~♡

あなたがあなたのままでいるために~「通級」という最先端システム利用のススメ~

どもです。

春になり、うちの次男様も晴れて小学校へ入学しました。

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毎日の送り迎えと弁当作りから解放された日。

無事に自走式に進化しました。

この笑顔。幼稚園3年間バスに乗って一度も手を振ったりとかしたことなかったのに~

なんというかこの人、学校に行きたかったんですよね。

2歳の頃からお兄ちゃんのPTAで学校へ連れてってたから、幼稚園は「こんなはずじゃなかった」場所だったのかも。

お兄ちゃんに憧れる、二人目あるあるかしらね。

 

長男が入学した時は1年生は5人だけという、ミニマムだった彼の幼稚園よりさらにミニマムになるという衝撃でしたが、同じ学校に入っているのに今年の次男のクラスは16人もいます。多い!去年の1年生なんかたった4人だったのに!

と思っていたら、保護者会でアンテナを張るにジモティはさほど多くなく、学区外から来ている人がわりと多い。

お話ししてみたら、やはり「少人数がいい」と選んでくる人が多く、もっと言えば都内小学校口コミランキングの上位になぜかうちの学校が入っているらしく、それで今年の人数が増えたようなんです。なんとそんなことが!

ただ、増えるとその「少人数」でなくなってしまうのでそこはナイショ。こんなところで書いといてなんですがw

そんなわけで5人でスタートした長男のクラスに転校生がどんどんやってきて、5年生になった今では11人にまで増えました。

5人がスタンダードの長男にとっては教室が大変窮屈らしく、事あるごとに狭い狭いと文句を言っております。

そんなん言ったらあの空間に40人で過ごした私の小学生時代はどうなっちゃうんだって暴れそうになりますがw、彼の主張を聞いていると日本でスタンダードな公立学校の教室サイズにはせいぜい10人くらいが人間的空間なんじゃないかと思います。ナチュラルソーシャルディスタンスね。

 

入学ほどなくして7歳の誕生日も迎えた次男様。

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大失敗ケーキの前で…

学校生活も思ったより順調な滑り出しです。

入学3日目にしてケンカをし、ちゃんと「何が嫌だったのか」自分で言え、学童でもお友達と大変上手に遊べている。

昨日お迎えに行ったらサッカーのゴールキーパーをしていたので、「君を若島津と呼ぼう」とつい口が滑ったらそこにいた指導員(女性)からすかさず、「私は日向小次郎派でした!」とツッコミが入り、うっかり腐海のワナに落ちそうになりましたよと。色々と過去の悪行がバレるからこんなところで盛り上がってはイケナイw

 

何度か触れてますが、次男が通った幼稚園は、「療育」に大変力を入れている幼稚園です。

明星大学の星山教授という、この道の専門家と繋がり、星山ゼミの学生の研究園になっていたり、星山先生が定期的に行われている親向け講座を受けている保護者もたくさんいます。

https://hoshiyama-lab.com/hoshiyama/

この星山先生の教えを多くの保護者が学んでいるので、保育中に我が子にサポーターをつけることも普通に行われています。

園内療育もスタートし、うちの次男様もお世話になりました。

保育の間に園の中ですんでしまうのでとても便利だし、担任の先生や園と情報を共有して頂けるので園外の療育に通うよりずっとスムーズで効果が高いです。ありがたや~

その流れで。

うちの園の出身者は、小学校へ上がるとわりと簡単に「通級」を利用します。

ある学校では、新入生全員うちの園出身者で、全員仲良く手をつないで通級に行く、という光景もw

 

そもそも「療育」とか「通級」ってなんぞや、という疑問が沸きますが。

例に漏れず私もよくわからなかったひとり。

一昔前までは、学校の授業についていけないような、特殊で「発達のゆっくりな子」が利用する場、として捉えられていました。もしかしたら今でもそういう先入観が普通なんじゃないかな。

私もそうでした。うちの子は普通!私は普通に産んだの!「あそこ」に行く子じゃないの!…的な。大変な偏見ですねすみません懺悔します~( ノД`)

いじめ問題のハシリで競争社会MAXでぶっちぎりの偏差値世代ですからね、私にそんな観念があるのも致仕方なし。

 

たくさんの人が、特にコロナ以降「時代が変わった」空気を感じていると思います。

実際去年から小学校の学習指導要領が変わり、中学校も今年から変わりました。

今までの、「暗記」「横並び一律」教育から、「個」を重視した教育に変わり、求められるものもガラリと変わったので子どもたちは大変、と中学生の子どもを持っている地元の事情に詳しいママ友に聞きました。

高校の偏差値の乱高下も激しく、保護者の選択基準は「個を大切にする教育をしてくれているかどうか」、決して有名大学にどれだけ入ったかを見ているのではないところが、本当に時代は変わったんだな、私も自分の観念を見直す必要があるな、と強く感じます。

これからの教育には、私たち親は何を求めていったらいいんでしょう?

うちの園の先生が放った、

「子どもに『上手にやらせること』なんて、至極簡単だ」

という言葉が、とても印象に残っています。

なぜなら、私も長男を育てるときは従来の価値観で「上手にできる子」狙いでしたから、刺さったんですね~

 

療育や通級では、何をするのでしょう。

幼稚園の療育では、担当の先生と1対1で、ゲームをしたり迷路をしたり、主に机上で、ただ遊ぶだけ。楽しいので、子どもたちも喜んでお部屋へ行きます。

そこでその子の特徴をつかみ、その子の「困り感」について支援していく、というもの。

うちの次男様は、家での様子と幼稚園での様子が全く違い、家では彼らしく過ごせているものの園へ行くとだんまりになったり集団で動くことを嫌がったりしていたので、その辺でお世話になることにしました。

これ、「頭のよい子」によく起こることで、親サイドからは見逃すことが多いことです。

特に大好きなお母さんやお父さんの前で「がんばってしまう」、友達の前で「演じてしまう」子は、そのまま見過ごされると自分らしく生きられないことに限界を感じ、思春期以降そんな自分に疲れ果ててしまうことも起こり得ます。

私はこの園にお世話になったからこそ早いうちに対処できたので、とても感謝しています。

1年行って、ずいぶん家と外の彼が一致してきました。

どの場面でも「彼らしく」自然に行動できていることが良く見て取れます。からの、入学3日目でのケンカだったりするんですがw

週に1回、1年程度なのに療育の効果には目を見張るものがあります。

療育といっても様々でしょうから(他を知らない)、うちの園の場合は「星山先生効果」なのかもしれないですけども。

 

「満月理論」というものがあります。

親や教育施設は、どうしても「育てる」「教える」という視点から、子どもに「欠けているもの」を探す、つまりジャッジをしがちです。

しかし、人は本来、どの人も、全く欠けているところはありません。

ただ見ている人が「問題」と見るから、問題に感じているに過ぎません。

欠けてないなんて、問題がないなんて、そんなことが!と思うかもしれませんが、私たちひとりひとりは、過去にも未来にも現在のどの位置にも決して同じ人はひとりといない、本当に唯一無二の貴重な存在です。

そんな貴重な存在の私たちが、誰かと比べて勝っているとか劣っているとか、親や先生に認められないと価値がないとか自分らしくいられないとか本当に必要のない観念だし、私たちが「問題」と感じる行動や病気などにも、そんな完璧な私たちがこの世に存在する目的のためにすべて意味があって起こしていることです。

 

欠けている、という視点で人を見ると、その人をジャッジするという視点でしかコミュニケーションをとれないので、その人の「話を聞く」ということができません。

そもそも欠けてない「人」を勝手な価値観でジャッジするのだから、そこに育つのは、自己否定だけです。

子どもに限らず大人も、自分の話を十分に聞いてもらった経験がある人はほとんどいません。

聞いてもらえない、わかってもらえない、が、自分を受け入れてもらえない、自分が人として存在できない、人を空間を社会を信用できない、につながっていく。

人としてこじらす元凶になったりする。

夫婦ゲンカもだいたいは「話が通じない」が原因。

子どもだけでなく、親も、おじいちゃんもおばあちゃんも、そのまたおじいちゃんもおばあちゃんも、先祖代々、「私の話を聞いてもらったことがない」のです。

「聞いてもらえなかった」亡霊が、子々孫々濃縮されて、現代の教育虐待やネグレクトにつながっている、と言っても過言ではありません。

「ただ話を聞いてもらう」だけのセラピーがあるくらい、人は「話を聞いてもらう」経験に飢えている。

「みんな違ってみんないい」は、全ての人々が求めている、自己容認なのです。

 

じゃあ話を十分に聞いてもらうとどうなるかというと。

空間への信頼が生まれます。

空間を信頼できると、自分を表現することができる。

つまりこれが自己信頼につながっていきます。

まさに、次男を見ていると思うことで、療育でただ遊んでいるだけのように見えて、親でない他人の「大人」に十分に受け入れてもらう経験を積み重ねていくことで、社会に対する信頼が生まれ、外でも自己表現ができるようになった。

だから小学校へ行っても、彼は空間への信頼があったので、何が嫌だったのか、をはっきり言うことができたんですね。

これができないとどうなるかというと。

「妄想」が得意になりますw

あの人がああ思っているんじゃないか、自分はこう思われているんじゃないか、という妄想から勝手に自己完結し、自分が勝手に生み出したものだけを信頼してしまいます。

そして勝手に「拒絶」という自己イメージを作りだし、拒絶を拒絶してさらに妄想膨らんで人当たりの良い自分を演じていく、そうです。

わーこれ全く自分に思い当たりがあり過ぎて( ノД`)、小学校から中学校丸5年間イジメにあった私の、このキョーレツな妄想癖はそこからきていたのかーーーーー的な。

 

そんなわけで思ったより順調な小学校生活を送っている次男様、これは小学校での通級は要らなくねえか?とも思ったんですが。

1年生から通級利用なんて他に誰もいないので、学校側はずいぶん色々準備してくださっていたようで、校長先生以下たくさんの先生たちからのさりげない見守りがあり、おトク感ハンパないです。

校庭に出てただ一列に並ぶ、という行為も、「誰かより速く並ぶ」という競争感を持たない次男は、昇降口から人がはけてからゆっくり靴を履き、みんなが並んでいるのを見渡してから、重役ペースで自分の所定位置にハマるw

そんな時彼はまさに満月理論で見ていただけているので、「ちゃんとやることはわかっているんだよね」と、彼のペースを尊重してもらえるのです。

これが「出来るのが当然」という視点だと、「早くできない」という欠陥でしか捉えられず、次男も期待に応えなくはならない抑圧で学校生活そのものが楽しくなくなることもあったでしょう。

私の住んでいる市では、療育関係の先生たちはわりと星山先生の講義を受けているそうで、共通認識があるのもスムーズに進む理由かな、とも思います。

「みんな違ってみんないい」

これを絵に描いた餅にしないためには、療育や通級を発達に心配のある特定の人だけを隔離するような位置づけでなく、全ての子どもが自分らしくいられるために子どもの話を十分に聞いて存在を受け入れる場として積極的に活用していくことが、これからの個の時代に必要とされるのではないでしょうか。

長男のように1クラス5人とかだとそもそも必要ないかもですがw

私もね、ずっと40人のマンモスクラスで横並びで育ちましたから、子どもの頃にそんな対応されていたら人生違ったのかもな、とちらっと思ったりもします。

子どもだって毎日色んなことが起こっているのに大人数の中で頑張ってへとへとになっている。

週に1回くらい息抜きして全存在をまるっと認められる時間を取ったっていいじゃないですか。

そうやって受け入れられた時間を充電にしてまた、元気に教室に戻っていける。

なぜか子どもは風の子的万能な扱いになってる風潮がありますが、子どもだって打ち出の小づちじゃないからねえ、大人と同じように悩みもすれば息切れもする。

人生で息切れしない自分のペースをつかむにも、療育や通級は大変有効ですね。

 

次男に関しては1,2年やってみて、軌道に乗っているようなら外していってもいいかなと思います。

だいたいは中高学年になってこじらせてから入ってくる子が多い。

「頭のいい子」ほど弱みを見せず頑張り過ぎて動けなくなってしまう可能性もあるので、「うちの子はそんなところに行くような子じゃないの!」という観念は外して、せっかくあるこの最先端無料システムを上手に利用する人が増えるといいな、と思います。

 

「子どもに『上手にやらせること』なんて、至極簡単だ」

上手にできることももちろん大事だけども、それよりも、生涯にわたり彼が彼として存在できて人生を楽しめるお手伝いができる幼少時代を送らせることができたらいいなと、日本の公立学校でもそういう教育も選択できるんだということを、広く知ってもらえるとうれしいです。

 

まあ今のところうちの男子どもは口を開けばうんこちんこうんこちんこ言ってて、こちらの影の努力が報われる気配もないんですけどね。

これいつ終わるのかな…終わらないのかなやっぱ……

 

次男劇の会と、長男1/2成人式と、次男卒園

皆さまおはこんばんちはです♡

いかがお過ごしでしょうか。

めっきり春めいてきて、うちのビオトープのメダカさんも動きまわり始めました。

冬の間は寒かったので動かず、ご飯も食べず、体もキュッと締まったお魚さんになり。動かないと食べないとはお魚さんは優秀ですね。反省。

魚類は変温動物なので寒いと動かなくなるけど、我々人間は恒温動物なので、どんなに寒くても体温を上げていこうする生き物。

だから身体が冷えると基礎体温まで体温を上げようと体力を消耗します。海でおぼれる人はこういう理由で体力が尽きておぼれるのよね。泳ぎが云々じゃなくて。

ここに「頼むから寒い恰好はするなあああ!!!」の根本的生物学的物理学的理由があるのでございますよ。

西原先生方式で全て口に入るものを42度まで上げて食すると、相当温存されて体を作る力に体力を回せるので、不妊の人は子どもを作る力も出るし子どもの不具合もなくなるし、アラフィフお母ちゃんのアンチエイジングになりますわよ。

お試しあれ~♡

 

長男10歳、次男6歳。

色々節目の行事が入れ食い状態の春です。

このコロナ禍で制限されつつもなんとか工夫しつつ最大限にやってあげたいという学校や幼稚園関係者の気持ちがビンビンに伝わってきて、本当にありがたいです(´;ω;`)

特に次男は年長で、3年やってきた成果刈り取りのとってもとっても大事な時期。

みんなの成長がこの年長最後の「劇の会」に集約されるので、どんなにミッションインポッシブルでもやり遂げるぜという園長の気合と決断が素晴らしいw

 

長男の幼稚園の時は行事らしい行事はほとんどなかったので、運動会はともかく作品展とか劇とか、必要?と最初はあまりピンときていませんでした。

確かに保護者に見せる「先生方の成果発表会」ならその時間もったいないから子ども外で遊ばせてくれと思うでしょうが、うちの幼稚園での行事は子どもの成長のための大事な大事なキッカケ作り。

そこまでやる?と保護者全員が感動するくらいひとりひとりにとことん寄り添い、子ども自らが「できた!超えた!」という気持ちを創っていくことに徹底してフォーカスしています。

だから地味だし、見た目「よくできた」劇ではないけども、ひとりひとりが成長した姿に母ども号泣で化粧流れてアラフォーのお顔が大変なことにw←平均年齢割と高めww

 

うちの地味男の次男様、年中さんの劇の時は、「やらない」の一点張り。

とにかく絶対やらない、やらない、やらない、で、本番一週間前にクラスの子が、ひとりでは恥ずかしくてできないから手伝ってくれないか、と言われ、それでも2日考えて、それならやってもいい、と、「ゆーりが承諾した!!」とお便りが回ったほどw

そこまで待ったもらったことに実は大きな大きな意味がある、と今になって知るんですが、そんだけゴネて彼がやったのは、ミミズに見立てた毛糸を咥えて右から左に走り抜けるフクロウさんの役、という、どこを見ていいか全くわからなかった年中の劇の思い出w

なのでね、芝居の内容もやる場所も環境もずっとレベルアップする年長の劇にうちの子が出るはずはないだろう、と、もう裏方でいいじゃないか、と、音響とかライトとかうちの子きっと役者というより監督タイプなのよと腹を括っていたのですが(実際どうしても出たくない子にはそういう任務が与えられます)。

なのに今年はなんと、最初からやるつもりになっている(゚д゚)

そしてなぜか最初から「村人役」チョイス。

もちろん主役ではなく、みんなで石を掘って石垣を積み上げるという地味~な役。

アレか、セリフのないその他大勢に紛れてとりあえず参加した感出してお茶を濁すつもりだな、と思っていたら。

その村人役にクッソ本気なんですよ!!

めっちゃリアルに鍬を振り、豆絞りで汗をふきふき、紙の岩をとんでもなく重そうに運ぶ!!

おマエ村人の劇団四季!!

そこに園長からのお手紙がささやく。

「子どもに役の上下はない」

目からウロコがポロンポロン。

そうか、彼は村人を、やりたくてやっていたのか。

「地味な役」と思っていたのは私で、主役を張ったりセリフの多い役をやることが「いいこと」だと、「良くできた子ども」で「他の子どもに勝っている」と思い込んでいたのは私で。

「先生の成果発表の劇なんてフン」と思っていた私の思考が一番、成果発表を期待していたんだな、と、愕然としました。

彼には、主役を張って目立ちたいとか、セリフをたくさんしゃべって高評価を得たいとか、そういうヨコシマな気持ちは微塵もなく、ただ自分がやりたくてこのチョイスだったから、ここまで真剣になりきれた。

他の子どもたちも、みんなで劇を作るということにひとりひとりが自主的にフォーカスしているので、どんな役も重要で、みんながひとりひとりに真剣にフィードバックしている。

役を決めるときも、やりたい子が複数出ると自主的にオーディションをします。

いつもは身体も声も小さい女の子が、どうしてもやりたい役に立候補し、オーディションしたら、「そんなに声が出るの!」というくらいすごい演技だった。

でも本人はそう言われてもキョトンとしていたそうです。

そのくらい人の「やりたい」という気持ちと「決める」という気持ちには、計り知れない力がある。

そこを引き出すために、先生たちが色んなタイプの子に徹底して寄り添う。。

みんながカオスになって劇の練習をしている隅っこの机でひとり迷路かなんかをやっていたうちの息子に先生が、「あれわけわかんないんだけど何やってるか教えて」と言ったら、めっちゃ詳細に状況説明したそうで、見てないふり参加してないふりして実は誰よりも前のめりで参加していた、次男。

こういう子もいるんですよ~と例に上がってたw

途中でいなくなっちゃうタイプの子には、とっとと覚えちゃって何度も同じことをやることが苦痛でいなくなったり、入り込み過ぎて疲れちゃうから自主的に避難したりと、言葉を発さないだけで個々の子どもには色んな理由がある。

それをただ、「その場に最初から最後まで大人の望む形で参加するのが良い子ども」という価値観だけで押し込めると、子どもの個性を読み違う。

参加しない子、座っていない子、いなくなっちゃう子、みんなそれぞれに「肯定的理由」があって、そこを尊重してもらった思い出が、子どもを大きく成長させます。

 

細かく書いたけど、同じ理由で悩んでるお母さんがいたら是非心にとめておいてほしいと思いました。

あ、うちの子そんな感じ!と思ったら、順調に育ってる証かもw

 

だってね。

人には、内側の自分と外側の自分がいると思うんです。

「ホンネの自分」と「タテマエの自分」。

それ自体は普通のことで、良いも悪いもない。

どちらも同じだけ大事にできるか、が、人生が楽しいか楽しくないかのコツなんじゃないでしょうか。

何言われても「どっちでもいい」と人と合わせているのは、タテマエの自分だけ大きくなりすぎて本当にやりたい人生を歩めないですよね。

大人の都合の良い子どもを演じていると、「どっちでもいい」という発言ばかりになる子どもになる。

自分をあきらめてしまっている。

ただ座れる子どもを作るなんてとても簡単だけど、座りたくて座っているのか、座っていると褒められて評価が上がってお母さんが喜んでくれるから座っているのか、は、座っているという事象は同じでもどっちの自分を大切にしているか、という面で大きく違ってきます。

我々昭和の世代はただただ箱に押し込められてきた教育だったけど、これからの子どもたちには通用しないし社会も人に求める部分が大きく変わってきているので、自分をあきらめてしまった人材自体が通用しなくなるんだろうな、と感じてます。

 

「待ったもらったことに実は大きな大きな意味がある」

と先ほど書きましたが、これがどういう意味を持つかと言うと、

「自分で決めたことはやり遂げる」

という、人の特性の根幹に関わってくること、ということなんです。

だから、「決める」という力を育むことがとても大事になってくる。

決めるところまで待ってもらうと、どんだけ大人が悠々の時を感じようとも辛抱強く待ってもらうと、最後の最後で、人は自分の言葉で語りだす。

パパッと決められる人もいるけど、半分くらいは「周りを待たせているから」妥協が入ります。

うちの次男は年中でぐじゅぐじゅした分、ものすごく「決める」力がついてきたなあ、というのと、私も彼の本音を引き出す「コツ」をつかみました。

彼は靴を選ぶのも、とても時間がかかります。店員さんに一度ご退室願うくらいw

でも時間がかかるのは、彼なりに見た目と履き心地と走りやすさを熟考しているだけで、一度決めるともう他の靴には見向きもしません。

ただその靴を愛します。

大人である私は色んな事情からどうしてもせかしたくなるのですが、彼が「決める」ところまで待ってあげると、あとがとてもスムーズであることに気が付きました。

 

極めつけは。着物。

次男が劇で村人役をやったのにはもうひとつ、実は「着物が着たい」という気持ちがあったのです!こだわるところソコ!?って感じww

衣装合わせでワクワクしながら衣装を着たら、村人なんで、彼の予想に反してモンペだった。

彼にとっては「モンペは着物でない」という判断だったらしく、珍しく文句を言っていた。

一応と思って担任の先生に掛け合ったのですが、「いやあ村人はモンペじゃないと岩が運べないしねえ、ゆーりに言っとくわ」

劇の話はここは終わったのですが、それでも私が気になったので、

「ゆーり、着物が着たい?」

「うん、着たい」

「卒園式、着物着る?」

「うん、着る」

「言ったね?今言ったね?着るね?絶対着るね?言ったね?じゃあ言うけど、うちの園で着物着るのって他に誰もいないと思うよ、多分アンタ一人だよ、それでも着る?」

(ちょっとひるんで)

「うーん、どっちにしようかなあ、神様に聞いてみよう…、ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な、……着るって、出る」

「結局着たいのかw、じゃあ予約するぞわかったね?」

 

というやり取りからの、コレ↓

 

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 見事にやり切りました。

彼は見事に、「自分で決めた」ことに対して、やり切りました。

そして私も、彼の本音が出るまで、ここまで待つことができました。

私にとってこれほど感慨深い着物はないんですよ~!!(´;ω;`)

(大人からしたら結構なくだらないレベルの話だけど)この着物姿は3年間の集大成、色んなことが報われた、この瞬間でした。

卒園に着物は長男も着たけど、アレは私が「着せた」、だから長男は「ママが着るなら着る」と条件を出した。

あのころはそんなことも考えもしなかったからねえ。

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 このころ絶賛授乳中で、どうやって着物で授乳するかで盛り上がった思い出がw(正式には身八つ口というウワサ…よっぽど巨乳か伸びる乳首か志村けんじゃないと無理な気がする)

 

人は自分で決めると、自分の行動に責任を持ちます。

どんな小さなことでも人に決められたことをやることは、抑圧になる。

だから他人軸になり人の評価ばかりが気になり、自分の人生を歩みにくくなる。ああ耳が痛い…( ノД`)

だから折あるごとに園では「決める力がついたかどうか」を見ている、と言われていたのか、と卒園近くになってようやく気づきました。

子どもひとりひとりの決める力を引き出すために、最大限のサポートをする。

次男は、100人近くいる卒園生の中でたったひとりになろうと、自分のやりたかったことはやり切ることができた。(結果的にはうちの子含めて袴姿が5人もいたんだけど…流行ってんの?)

自分で決めることができた。

これから先小学校へ行って、想定できないような色んなことが起こるでしょうが、この「決める力」を持っていれば、どこへでもやっていけそう、という自信があります。

子育ては色んな悩みが尽きないことが普通のことだと思います。

この子はどうしたらいいのか、どうなっちゃうのか、親の心配は尽きないでしょう。

そんな時、「私たちの役割は、子どもが自分で決められる力をつけることだけだ」というところだけにフォーカスすると、子育ても迷子になることが少なくなるんじゃないかな、とこの園に3年間お世話になって感じたことです。

そして、親や大人の都合に合わせるのでなく、子どもの決めるところを待ってあげられる社会が実現すると、いいですね。

 

長男の1/2成人式も、子どもたちがやりたいことをできるだけ実現させてくれた式でした。

子どもたちが自分で企画進行し、自分たちの言葉で語り、みんなで作り込んだ、気持ちがたくさん伝わってくる素晴らしい式でした。

休み時間も自発的にずっと話し合ったり楽器の練習をしたり、先生方もこの状況で開催の決断そのものが大変だったろうに、子どもたちに任せここまで見守ってくださって本当に感謝です。

保護者と子どもの間でお手紙の交換したり、決意の言葉を述べたり、みんな精一杯頑張っていて、ここまで大きくなったんだなあと感慨深いです。

子どもたちが大好きなお父さんお母さんに喜んでもらいたい、という姿がたくさん伝わってきて、やっぱりぼろ泣き~

1/2成人式って言い得て妙だなあ、ちょうど10歳って、方向性が変わっていく節目なんでしょうね。私の子どもの頃はなかったから羨ましい。いつの時代ってツッコミはなしでね?

今までの子どもたちの世界でのベクトルは親でした。彼らにとっての社会=家族だったから。

この目がいよいよ社会に向いていく。ここまで十分に家庭で存在を認めてもらった子どもたちは、その自信をバックボーンにまっすぐに社会へ目を向けていけるでしょう。

これからはお父さんお母さんが大好きと言う気持ちをそのまま、社会に向けてほしいなと思い、以下の言葉を送りました。

 

「恩送り」という言葉があります。

良いことをされた時その人に「恩返し」をしないと、と思うと、世界が広がっていきづらいですが、その気持ちを是非、他の人に送るという「恩送り」をしてください。

お父さんお母さんに返そうとするのではなく、これから関わる全ての人達に送ってください。

そうして、住みやすいステキな社会を自ら創っていってください。(めっちゃ要約)

 

 これから大きく変革していく社会に生きる子どもたち。

自分たちの力で思いやりにあふれた社会を創っていってほしい。自分のことは大棚にあげますけど…

 

 

最後に、

次男卒園アルバムに書いた、寄せ書き。

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今だけを生きる彼らしい発言だなあと思いましたw

さあ~次は小学校だ!

まだまだネタは満載だ~!

 

ではまた次回~