もうひとつの卒業

またまたお久しぶりになってしまいました。皆様にはお元気でお過ごしでしょうか。

私がブログをサボっている間に、子どもたちは、長男が中学生になり、次男が小学3年生になりました。

おふたりともとっくに誕生日という関門もくぐり抜けられ。

この手抜きたっぷりのケーキを見ていってやってください…。

4月生まれの次男バージョン(友達が来るから気合があった)

6月生まれの長男バージョン(手抜き過ぎてもう)

次男は初めて、仲の良いお友達をふたり家に呼んで、パーティをしました。

なかなか個性豊かなお友達で、3人の関係を見てるだけで私の心の中のツッコミ鬼が止まらなかった…

まだ「人にあげる」プレゼントという概念がないのか、自分の宝物の組み立てペーパー飛行機を「作らせてあげるだけ」という斬新なプレゼントアイデアを持参、次男に組み立てさせた後は当然持ち帰ったり、お母さんに持たせてもらった水鉄砲のプレゼントも当然のように持ち帰ろうとしたり(お迎えに来たお母さんにドタマはたかれてたw)、その飛行機をあまりにも欲しすぎる他の友達が、交換条件に自分のお姉ちゃんを差し出そうとしたり…(人身売買か?)そんなやり取りの横でクスリともせず黙々と紙飛行機を作る次男。

なにそれあんたたち、学校でもコレなわけ?担任の先生が笑い死んだりしないの??

こんな日常をまとめる仕事を日々されてるかと思うと、先生という職業がうらやましいようなそうでもないようなw

 

うちのお宝長男様は、複数方面から毎年毎年色んなものをもらえる誕生日を13回も経験してきているので、もはや「欲しいもの」が、ない。

彼が欲しいものはもう犬鳥かスマホくらいなんだが、当然生体は禁止だし(命を贈り物にしちゃうような扱いはしない)、我が家はスマホもまだ与えるつもりはない。iPadで充分だし、仕事場で仕事用のハイスペックなパソコンを使わせてやっているので文句も言わせない。

 

「何が欲しい?」

「うーん、…寄席の切符が欲しい。」

 

という、シブいお答え。

以前、上野の東京美術館の特別展示を見に行こうと出かけたら、コロナの規制だかで予約なしで入れず、悔し紛れに近くの鈴本演芸場で寄席を見たら、すっかり気に入ってしまったのでした。

寄席の公演は普通、午前と午後に分かれていて、1回の公演が4時間という長時間。

小学生に耐えられるかしら?と心配だったんだけど、予想外に楽しめたらしく、しかも小学生が寄席に座っているのはとても珍しいので、ずいぶんいじってもらいました。

↑ワイヤー芸の芸人さんに頂いた、アンパンマンのチーズといったんもめん。いったんもめんが秀逸すぎる。

 

落語は、子どもの日本語の習練到達度を計る、良いツールだな、と思いました。

うちではダンナが落語が好きで時々落語や漫談をかけ流ししたりしているので、独特の言い回しや単語などがわかっているからこそ、寄席も楽しめたんでしょう。

普段「古典」に触れていない同級生なんかは、落語を聴いても全く日本語には聴こえないらしいです。言葉は生き物だから、時代とともにどんどん変化して、使わなければ廃れていくものなんでしょうね。

長男と同い年の幼なじみの男の子に、何も教えていないのに幼稚園の頃「歌舞伎を習わせてください」と親に土下座して、歌舞伎座まで歌舞伎を習いに行っている子もいるので、こういうのに興味が沸くのは持ってる素質もあるんだろなと思います。前世の記憶がちゃんと消えてないとかねー。

 

ちなみにそのあと、ちゃんと「形のある」おもちゃもしっかり要求されました。

大きな公園へ遊びに行ったらコレで遊んでいる子がいて、その場でおねだりされた。

玄関先で嬉々として派手に梱包を開ける兄弟…イージーローダーというのか?ドリフトができてとても楽しいらしいです。
https://item.rakuten.co.jp/gooddoors/drifter-x/?variantId=558 

落語を聴くかと思えばまだまだこういうのが楽しい、お子ちゃまですわ…

 

さてさて。

タイトルの「もうひとつの卒業」とはなんぞやというと。

うちの次男様が、3年生になって「通級」を卒業しました。

1年生の頃からお世話になっている通級、去年の12月ごろに、「来年はどうしますか?」と打診がありました。

本人に「どうする?」と聞いても黙り込み、返答期限になっても明確な返事が得られず。

通級が与えた彼の変化は目に見えて大きく、もう必要ないといえば必要ないかもだけど、1週間のうち勉強から離れられる2時間の息抜きがあることがまだ彼にとっては有益なんじゃないかなと感じ、見切り発車でもう1年延長することにしました。

すると、とっくに次年度も申し込んだ2月ごろに、

「やっぱり来年は通級行かない」

と。

今言うぅぅぅ!?

そうか忘れてた、この人は寡黙なわけでも何も考えてないわけでもない、結論出すのに時間がかかるってだけだったわ!!

その昔幼稚園で、運動会に飾る旗を書くのに紙を前に3日も黙って座ってて、期限切れでしびれを切らした先生がやっと聞きだしたら、

「………、横顔が描きたい」。

そこまで待ってくれる先生方にも感謝なのですが~(私は待てないw)

通級に関して行きたくない理由を聞いたら、行ってる時間分勉強が遅れるのが嫌だ、と。

小学校から大学4年に至るまで一切授業を聞かないで出てきた私から見ると、本当に私の子?!と驚愕の発言w

みんなが漢字や筆算で頭を痛めている間、ゲームしたり工作したりフルーツポンチ作って食べたり、そんな魅力的な権利を自ら手放すなんて全く信じられないんですが、本人がそう言うんだからもはや卒業時なのでしょう。

ただ、手続きが間に合わないので、3年生になって1か月くらいは通っていただき、円満退級してきました。

 

通級には本当に感謝していて、彼が彼の意見をはっきりと言い、感情をしっかり出せるようになったのは通級のおかげでした。

「くやしい」と人前で泣けるようにもなりました。

今や彼はクラスでも人気者らしく(無害だからw)、先日忘れ物を届けに行ったら本人でないクラスの半分くらいの子が一斉に駆け寄ってきて私から届け物を奪い、我先に次男に届けてくれました…その後ろをゆっくりを歩いてくる次男、何その重役出勤みたいな態度(# ゚Д゚)私が用があるのはアンタなんだけど?

 

 

退級して不都合なことがあるとすれば、今までは通級に参加するたびに担当の先生と担任の先生で交わしていたお便りのコメントが彼の現在を把握するのにとても役立っていたんですが、退級したらそれが一切なくなってしまったので、それでなくても家で学校のことを話さない息子の現在地を失念しがちでそこがビビりますw

相変わらず今しか生きていないので、学校で起こった色々なことを家に持って帰ってこないんですね。

ちょっと人とコミュニケーションを取ったり距離感をつかんだりするのがが下手な転校生女子にしつこく付きまとわれているらしいんですが、それも同じクラスのママ友に報告されて知りましたもん。

「ゆーりくんね、心底うんっっっざりした顔してたよ(笑)」

本人に、そうなの?って聞けば答えるけど、別に家に帰ってまで自ら話すような案件でもないらしく。

この辺、長男は何かあるとうっとーしいくらい家で愚痴るので、同じように育てたつもりでもこんなに個性って違うんだなあ、としみじみします。

 

幼稚園の先生の、「2年くらい通級の下駄を履かせてあげると、この子はそのあとスムーズだよ」という予言がドンピシャでした。さすが海千山千。

通級も、園児みんなに勧めるわけでもなく、行かない方がよい子もいるらしいので(授業を抜けるのがストレスになるとかね)、その辺プロのアドバイスってすごいなあと思います。

うちの次男様の場合は、

「大人すぎた」。

生まれたころからお兄ちゃんしか見てこなかった次男にとって、同い年の集団はとても幼く感じ、どうふるまっていいのかわからなかったんですね。

「人ってね、実際の年齢じゃなくて、精神年齢が同じくらいの子とお友達になることが多いのよ、そうでないと話が合わないでしょ、ゆーりは身に覚えがあるんじゃない?」

と言ったら、深―くうなずいていました。

学校は実年齢だけで横切りするので、それで浮いてしまったりお話しできなかったり、という子はたくさんいると思います。

でも自分を表現する手段が拙いから、周囲にわかってもらえず、学校が楽しくなくなってしまう。

そういう多様性を鋭く見抜き、コミュニケーションを取れるよう訓練してくれる、決して「勉強が追い付かない子が普通級の子に迷惑がかからないようにおとなしくさせる」ことではない、という信念をしっかり持った先生方にお世話になって、本当にありがたかったです。

 

私も、「待つ」ということはどういうことか、を学ばせていただきました。

先日、道徳授業の公開講座がありました。

子どもたちが受けている道徳の授業を参観し、それについて保護者や先生方が意見交換をするという場です。

道徳の、「あなたはどう感じますか、この主人公はどう感じていると思いますか」という問いについて答えるのは、国語や算数という、答えがはっきりしているものとは切り口が違い、とても深く考える必要があって、子どもたちはすらすらと答えることができません。

見ている保護者にとってその姿はとてもじれったく、

「インプットがあってアウトプットがあるのではないか」(つまり子どもに答えを教えていないから答えられないのでは)という意見がいくつも出されました。

でもね、道徳の答えなんて、子どもたちも今までの人生の経験で充分培ってきていて、すでに彼らの中に持っているものだと思います。

それを言語化する難しさ、答えのない「答え」という葛藤、そこが道徳の授業の狙いであり、教えられたことをただ答えてできるできないを競う他の授業とは一線を画すものなんだと思います。

そうやって考えて子どもたちが自分の言葉で発するというのがかけがえのない人生の経験であり、親はそれをじっと「待つ」、という忍耐が要求される、私は次男を通じてそこを教えてもらったように思います。

答えを言ってしまうのは簡単ですもんね。

大勢の子どもたちをできるだけ同じように育て上げなければならないという環境の中で、「待つ」ということがどれだけできるかというと、先生方のご苦労がしのばれますが、少人数という環境と通級を通して最大限「待ってもらってる」次男がとても幸せに感じました。

あとは私の忍耐が育ってくれることを願うのみ…例に漏れず「早く早く」は口癖だし、運動会の旗に横顔描きたいって3日も黙り込まれたら、私ゃ待てる自信はないわいな…

 

というわけで、また次回~

みなさん、こんな亀速な私を待ってくれてありがとう(´;ω;`)