あなたがあなたのままでいるために~「通級」という最先端システム利用のススメ~

どもです。

春になり、うちの次男様も晴れて小学校へ入学しました。

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毎日の送り迎えと弁当作りから解放された日。

無事に自走式に進化しました。

この笑顔。幼稚園3年間バスに乗って一度も手を振ったりとかしたことなかったのに~

なんというかこの人、学校に行きたかったんですよね。

2歳の頃からお兄ちゃんのPTAで学校へ連れてってたから、幼稚園は「こんなはずじゃなかった」場所だったのかも。

お兄ちゃんに憧れる、二人目あるあるかしらね。

 

長男が入学した時は1年生は5人だけという、ミニマムだった彼の幼稚園よりさらにミニマムになるという衝撃でしたが、同じ学校に入っているのに今年の次男のクラスは16人もいます。多い!去年の1年生なんかたった4人だったのに!

と思っていたら、保護者会でアンテナを張るにジモティはさほど多くなく、学区外から来ている人がわりと多い。

お話ししてみたら、やはり「少人数がいい」と選んでくる人が多く、もっと言えば都内小学校口コミランキングの上位になぜかうちの学校が入っているらしく、それで今年の人数が増えたようなんです。なんとそんなことが!

ただ、増えるとその「少人数」でなくなってしまうのでそこはナイショ。こんなところで書いといてなんですがw

そんなわけで5人でスタートした長男のクラスに転校生がどんどんやってきて、5年生になった今では11人にまで増えました。

5人がスタンダードの長男にとっては教室が大変窮屈らしく、事あるごとに狭い狭いと文句を言っております。

そんなん言ったらあの空間に40人で過ごした私の小学生時代はどうなっちゃうんだって暴れそうになりますがw、彼の主張を聞いていると日本でスタンダードな公立学校の教室サイズにはせいぜい10人くらいが人間的空間なんじゃないかと思います。ナチュラルソーシャルディスタンスね。

 

入学ほどなくして7歳の誕生日も迎えた次男様。

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大失敗ケーキの前で…

学校生活も思ったより順調な滑り出しです。

入学3日目にしてケンカをし、ちゃんと「何が嫌だったのか」自分で言え、学童でもお友達と大変上手に遊べている。

昨日お迎えに行ったらサッカーのゴールキーパーをしていたので、「君を若島津と呼ぼう」とつい口が滑ったらそこにいた指導員(女性)からすかさず、「私は日向小次郎派でした!」とツッコミが入り、うっかり腐海のワナに落ちそうになりましたよと。色々と過去の悪行がバレるからこんなところで盛り上がってはイケナイw

 

何度か触れてますが、次男が通った幼稚園は、「療育」に大変力を入れている幼稚園です。

明星大学の星山教授という、この道の専門家と繋がり、星山ゼミの学生の研究園になっていたり、星山先生が定期的に行われている親向け講座を受けている保護者もたくさんいます。

https://hoshiyama-lab.com/hoshiyama/

この星山先生の教えを多くの保護者が学んでいるので、保育中に我が子にサポーターをつけることも普通に行われています。

園内療育もスタートし、うちの次男様もお世話になりました。

保育の間に園の中ですんでしまうのでとても便利だし、担任の先生や園と情報を共有して頂けるので園外の療育に通うよりずっとスムーズで効果が高いです。ありがたや~

その流れで。

うちの園の出身者は、小学校へ上がるとわりと簡単に「通級」を利用します。

ある学校では、新入生全員うちの園出身者で、全員仲良く手をつないで通級に行く、という光景もw

 

そもそも「療育」とか「通級」ってなんぞや、という疑問が沸きますが。

例に漏れず私もよくわからなかったひとり。

一昔前までは、学校の授業についていけないような、特殊で「発達のゆっくりな子」が利用する場、として捉えられていました。もしかしたら今でもそういう先入観が普通なんじゃないかな。

私もそうでした。うちの子は普通!私は普通に産んだの!「あそこ」に行く子じゃないの!…的な。大変な偏見ですねすみません懺悔します~( ノД`)

いじめ問題のハシリで競争社会MAXでぶっちぎりの偏差値世代ですからね、私にそんな観念があるのも致仕方なし。

 

たくさんの人が、特にコロナ以降「時代が変わった」空気を感じていると思います。

実際去年から小学校の学習指導要領が変わり、中学校も今年から変わりました。

今までの、「暗記」「横並び一律」教育から、「個」を重視した教育に変わり、求められるものもガラリと変わったので子どもたちは大変、と中学生の子どもを持っている地元の事情に詳しいママ友に聞きました。

高校の偏差値の乱高下も激しく、保護者の選択基準は「個を大切にする教育をしてくれているかどうか」、決して有名大学にどれだけ入ったかを見ているのではないところが、本当に時代は変わったんだな、私も自分の観念を見直す必要があるな、と強く感じます。

これからの教育には、私たち親は何を求めていったらいいんでしょう?

うちの園の先生が放った、

「子どもに『上手にやらせること』なんて、至極簡単だ」

という言葉が、とても印象に残っています。

なぜなら、私も長男を育てるときは従来の価値観で「上手にできる子」狙いでしたから、刺さったんですね~

 

療育や通級では、何をするのでしょう。

幼稚園の療育では、担当の先生と1対1で、ゲームをしたり迷路をしたり、主に机上で、ただ遊ぶだけ。楽しいので、子どもたちも喜んでお部屋へ行きます。

そこでその子の特徴をつかみ、その子の「困り感」について支援していく、というもの。

うちの次男様は、家での様子と幼稚園での様子が全く違い、家では彼らしく過ごせているものの園へ行くとだんまりになったり集団で動くことを嫌がったりしていたので、その辺でお世話になることにしました。

これ、「頭のよい子」によく起こることで、親サイドからは見逃すことが多いことです。

特に大好きなお母さんやお父さんの前で「がんばってしまう」、友達の前で「演じてしまう」子は、そのまま見過ごされると自分らしく生きられないことに限界を感じ、思春期以降そんな自分に疲れ果ててしまうことも起こり得ます。

私はこの園にお世話になったからこそ早いうちに対処できたので、とても感謝しています。

1年行って、ずいぶん家と外の彼が一致してきました。

どの場面でも「彼らしく」自然に行動できていることが良く見て取れます。からの、入学3日目でのケンカだったりするんですがw

週に1回、1年程度なのに療育の効果には目を見張るものがあります。

療育といっても様々でしょうから(他を知らない)、うちの園の場合は「星山先生効果」なのかもしれないですけども。

 

「満月理論」というものがあります。

親や教育施設は、どうしても「育てる」「教える」という視点から、子どもに「欠けているもの」を探す、つまりジャッジをしがちです。

しかし、人は本来、どの人も、全く欠けているところはありません。

ただ見ている人が「問題」と見るから、問題に感じているに過ぎません。

欠けてないなんて、問題がないなんて、そんなことが!と思うかもしれませんが、私たちひとりひとりは、過去にも未来にも現在のどの位置にも決して同じ人はひとりといない、本当に唯一無二の貴重な存在です。

そんな貴重な存在の私たちが、誰かと比べて勝っているとか劣っているとか、親や先生に認められないと価値がないとか自分らしくいられないとか本当に必要のない観念だし、私たちが「問題」と感じる行動や病気などにも、そんな完璧な私たちがこの世に存在する目的のためにすべて意味があって起こしていることです。

 

欠けている、という視点で人を見ると、その人をジャッジするという視点でしかコミュニケーションをとれないので、その人の「話を聞く」ということができません。

そもそも欠けてない「人」を勝手な価値観でジャッジするのだから、そこに育つのは、自己否定だけです。

子どもに限らず大人も、自分の話を十分に聞いてもらった経験がある人はほとんどいません。

聞いてもらえない、わかってもらえない、が、自分を受け入れてもらえない、自分が人として存在できない、人を空間を社会を信用できない、につながっていく。

人としてこじらす元凶になったりする。

夫婦ゲンカもだいたいは「話が通じない」が原因。

子どもだけでなく、親も、おじいちゃんもおばあちゃんも、そのまたおじいちゃんもおばあちゃんも、先祖代々、「私の話を聞いてもらったことがない」のです。

「聞いてもらえなかった」亡霊が、子々孫々濃縮されて、現代の教育虐待やネグレクトにつながっている、と言っても過言ではありません。

「ただ話を聞いてもらう」だけのセラピーがあるくらい、人は「話を聞いてもらう」経験に飢えている。

「みんな違ってみんないい」は、全ての人々が求めている、自己容認なのです。

 

じゃあ話を十分に聞いてもらうとどうなるかというと。

空間への信頼が生まれます。

空間を信頼できると、自分を表現することができる。

つまりこれが自己信頼につながっていきます。

まさに、次男を見ていると思うことで、療育でただ遊んでいるだけのように見えて、親でない他人の「大人」に十分に受け入れてもらう経験を積み重ねていくことで、社会に対する信頼が生まれ、外でも自己表現ができるようになった。

だから小学校へ行っても、彼は空間への信頼があったので、何が嫌だったのか、をはっきり言うことができたんですね。

これができないとどうなるかというと。

「妄想」が得意になりますw

あの人がああ思っているんじゃないか、自分はこう思われているんじゃないか、という妄想から勝手に自己完結し、自分が勝手に生み出したものだけを信頼してしまいます。

そして勝手に「拒絶」という自己イメージを作りだし、拒絶を拒絶してさらに妄想膨らんで人当たりの良い自分を演じていく、そうです。

わーこれ全く自分に思い当たりがあり過ぎて( ノД`)、小学校から中学校丸5年間イジメにあった私の、このキョーレツな妄想癖はそこからきていたのかーーーーー的な。

 

そんなわけで思ったより順調な小学校生活を送っている次男様、これは小学校での通級は要らなくねえか?とも思ったんですが。

1年生から通級利用なんて他に誰もいないので、学校側はずいぶん色々準備してくださっていたようで、校長先生以下たくさんの先生たちからのさりげない見守りがあり、おトク感ハンパないです。

校庭に出てただ一列に並ぶ、という行為も、「誰かより速く並ぶ」という競争感を持たない次男は、昇降口から人がはけてからゆっくり靴を履き、みんなが並んでいるのを見渡してから、重役ペースで自分の所定位置にハマるw

そんな時彼はまさに満月理論で見ていただけているので、「ちゃんとやることはわかっているんだよね」と、彼のペースを尊重してもらえるのです。

これが「出来るのが当然」という視点だと、「早くできない」という欠陥でしか捉えられず、次男も期待に応えなくはならない抑圧で学校生活そのものが楽しくなくなることもあったでしょう。

私の住んでいる市では、療育関係の先生たちはわりと星山先生の講義を受けているそうで、共通認識があるのもスムーズに進む理由かな、とも思います。

「みんな違ってみんないい」

これを絵に描いた餅にしないためには、療育や通級を発達に心配のある特定の人だけを隔離するような位置づけでなく、全ての子どもが自分らしくいられるために子どもの話を十分に聞いて存在を受け入れる場として積極的に活用していくことが、これからの個の時代に必要とされるのではないでしょうか。

長男のように1クラス5人とかだとそもそも必要ないかもですがw

私もね、ずっと40人のマンモスクラスで横並びで育ちましたから、子どもの頃にそんな対応されていたら人生違ったのかもな、とちらっと思ったりもします。

子どもだって毎日色んなことが起こっているのに大人数の中で頑張ってへとへとになっている。

週に1回くらい息抜きして全存在をまるっと認められる時間を取ったっていいじゃないですか。

そうやって受け入れられた時間を充電にしてまた、元気に教室に戻っていける。

なぜか子どもは風の子的万能な扱いになってる風潮がありますが、子どもだって打ち出の小づちじゃないからねえ、大人と同じように悩みもすれば息切れもする。

人生で息切れしない自分のペースをつかむにも、療育や通級は大変有効ですね。

 

次男に関しては1,2年やってみて、軌道に乗っているようなら外していってもいいかなと思います。

だいたいは中高学年になってこじらせてから入ってくる子が多い。

「頭のいい子」ほど弱みを見せず頑張り過ぎて動けなくなってしまう可能性もあるので、「うちの子はそんなところに行くような子じゃないの!」という観念は外して、せっかくあるこの最先端無料システムを上手に利用する人が増えるといいな、と思います。

 

「子どもに『上手にやらせること』なんて、至極簡単だ」

上手にできることももちろん大事だけども、それよりも、生涯にわたり彼が彼として存在できて人生を楽しめるお手伝いができる幼少時代を送らせることができたらいいなと、日本の公立学校でもそういう教育も選択できるんだということを、広く知ってもらえるとうれしいです。

 

まあ今のところうちの男子どもは口を開けばうんこちんこうんこちんこ言ってて、こちらの影の努力が報われる気配もないんですけどね。

これいつ終わるのかな…終わらないのかなやっぱ……