自分と一致すること
おはこんばんちはです。コロナ風邪騒動の中、お元気でお過ごしでしょうか。
先日わたくし、生まれて初めてディズニーのチケットをネットで取ろうとトライしましたが、どんだけ張り付いてもアクセスすらかなわずあまりに歯が立たなくて世間の分厚さを体で実感しました。みんな根性すごいわ…私なんて足元にも及ばん。いくらババ孫コンビのためとはいえ、これ以上はムダにスマホ老眼を加速させるだけなので断念しました(´;ω;`)
行楽地にはいつもふらっと出かける我が家。
家出て現地着くのが夕方とかwなのでディズニーもアフターなんちゃら専門。
ところがこのコロナ騒動で色んな施設が軒並み予約制になっていることを全く学習せず毎度子どもらを泣かせているので、たまには予定のある行動をしようと心を入れ替えたら、コレ。
近くのプラネタリウムも予約制なの知らずに行ってたまたま空いていたので入れましたが、「3席空けて座ってください」と言われ、「ええ?四六時中顔を舐めまわしているような自分の子どもと、プラネタリウムに限って離れて座れと?!」と周りを見たらカップルも離れて座ってて、いちゃいちゃしにきたのにあら残念と思ってしまいましたとさw
そんなご時世の中ではありますが、次男幼稚園が無事に運動会を開催してくれました♡
「密にならないよう」と綱引き競技が玉入れに変更になってましたけど、玉入れこそ我を忘れて密にならないかね?綱引きの方が少なくとも秩序が乱れることはないよね?と小一時間。まあそんなことはどうでもいいんですが。
もうね、特にうちの園では年長の運動会は3年間の集大成のひとつであり、醍醐味であります♡
子ども自身もそうですが、親も、わけもわからず自分の子の「出来る出来ない」だけ観覧していた年少時代とは違って、幼児教育とは何かがなんとなくわかってくるこの年長時期の運動会は、我が子のみならずクラスの子たちの成長ぶりに自分の子でもないのにみんなが涙するのですよ。
うちの園では、保護者に、数日前に行われる運動会の予行を観覧することを推奨してます。予行から本番のたった数日間に、子どもが大きく成長するからです。その数日で子どもたちの本気とか覚悟が決まるんだよね。
しばしば、次男のマイペースっぷりをここで吐露させてもらってますがw
わかりやすい長男と違ってマイペースな次男自身、はてどこまで運動会を楽しめるのか、若干(というかかなり)不安ではありました。
種目は、
・とびばこ
・荒馬
・リレー
の3つ。
の前に。
私には「開会式」という大きな関心ごとがあるw
開会式の準備体操として「できるかな体操」というのを全学年でやるんだけど、予行の時ひとり後ろを向いてふざけたりしてほとんどやらない人発見…うちの次男様だw
担任の先生いわく、「ゆーり君はこういうのがバカバカしくてやってられないんだよ」だそうで、そんな話を運動会直前の懇談会でシェアしたら、開会式のできるかな体操の時だけピンポイントに次男の注目度が上がってしまうというww
お前な~世の中というのはな~恥ずかしいからってやらないと返って目立つんだよ~~
「おかあさんといっしょ」をちゃんと観せておけばよかったと今さら後悔…だって「だんごむし」って歌えばほぼ日本中の幼児が一斉に転がるじゃんw
でもシェアしたおかげで「私ゆーり君のそういう気持ちわかる~」「うちの子も実はそうだと思う、やってはいるけど」という本音の声も聞けたのでした。
まあね、母親の歩く道がずいぶんとナナメですから、子どもにまっすぐ歩けという方がおこがましいわな。
荒馬とは、青森の伝統芸能で、収穫の時働いてくれた馬に感謝する踊りだそうで、うちの園の伝統行事です。
毎年運動会で年長さんが披露し、終わると使った荒馬を年中さんに引き継ぐ儀式があります。
ほとんどの園児が年長の馬に憧れを持つ中、荒馬なんぞ全く箸にも棒にも掛けなかった次男様でしたが、今年はどういうわけか「今までの中で一番楽しい!」とのたまい、「荒馬やるよ~」の掛け声に誰よりも早く集まるハマりっぷり。
演技にも真剣で、「ゆうりターン」と呼ばれるほどかっこよく回ることにこだわっておりましたw意外にナルシストだったかww
どうしても目に見える成果が欲しい親としては、「出来ない」「やらない」と主張する我が子を持つとやきもきする場面ですが。
出来ない・やらない、を受け入れられて初めて、自分から出来る・自分からやる、気が起きるようになる。
年中の1年を通して「やらない」を貫かれ、結構悩んだ1年でしたが、そこで彼の「やらない」を尊重しみんなに認めてもらえたからこそ、年長の今ここで花開いたように思います。
やらない子の親はモヤモヤするけど、いずれやろうとする力を信じることが大事。
園からも「いずれやろうとする力を信じて」もらったからこそ、彼は今年の運動会は自発的に楽しめた。できるかな体操も強制されたりやらないことで問題視されなったのは本当に有り難いw←園によっては、だよね?こういうの~
一説によると、2012年以降に生まれた子どもには、クリスタルチルドレンと呼ばれる子どもがたくさんいるのだそうです。
詳しくはググるとでてきますけど、周囲に迎合しないというか今までの価値観とは合わないというか、そういう特徴の子どもたちなんだそうです。
多分うちの次男様それw徹底して忖度がないww
そういう子どもが従来の箱に収まるかというと、微妙だなあ。と今さら小学校が悩ましい…
自分に集中しているときの次男は素晴らしいんです。走っているときでも荒馬でも、体にピーンと一本柱が通ってるみたいにキリッとしている。
先日、現役大学生に魚獲りを教えてもらいに川へ行ったのですが(こういうの私はあまり教えられないから、魚獲りで家庭教師を雇ってみたw)、ゆーりの腰の入り方が素晴らしいと大絶賛され。
普段はくにゃくにゃなんですよこの人。私と買い物しているときとかご飯食べてる時とかめっちゃ気が抜けてて、しばしば怒られる。
普段は気が抜けているくせに、自分に集中しているときの彼は非常に姿勢が良い。
お 前 は 羽 生 結 弦 か っ て の 。
人間、自分に集中しているときって、雑念がないんですよね。こういうのを神がかっているというのかな。今風に言うと「神ってる」w←長男がどこから聞いてきたのか時々使うww
自分の中の「神」と繋がっている状態なんだろうね。
そういう時人は、体がまっすぐになる。体が歪まず、自分の体の正面で作業をしている。
周りの目や評価を気にしたり、「やらねばならない」概念で動くと、体が歪む。
最近中医学を学びながらも量子をちょこっと学び始めているのですが、余計な概念や感情など波動の低い部分を体から消していくと、この体の歪みがどんどんなくなっていくんですよ。
歪みがなくなっていくと、自分の中の神がでてきて、そこと繋がっていける。
子どもはそもそも繋がっているものだけど、この世で色々な体験をしているうちに、知らず知らずに体に闇が溜まって歪んでいってしまうんですね。
だから大人になると大抵の人は「ねばならない」にがんじがらめで身体が歪みまくっていて、様々な不調の原因になったりする。
自発的でなく、大人が課題を「やらせる」というのは、この「体を歪ませる」行為にあたると思うのです。
お母さんが望むから、先生が評価するから、周りの人がやるから、やる、これは全部「外側からの動機付け」ですよね。
人間というのは、やらされることはたとえどんな小さなことでも抑圧や強迫観念になってしまう生き物。
勉強やお片付けも、「勉強しないと〇〇になっちゃうよ」とか「片付けないとおもちゃ捨てるよ」とかいうよくある強迫的な「しつけ」は、全く解決にはならないどころか子どもを歪ませてしまうそうです。
部屋中を荒らされる男子の親としては発狂に堪えないことではありますがっ。
わかってはいても、本棚の本全部出して秘密基地作られたりするとね、とっさに模範回答とか無理ですから💢すみませんね未熟な親でさっっ
だから子どもには、できるだけ「やりたいことをやらせる」。
やりたいこと=自分の中の神とつながる、ということ。
やりたいことをやっている子どもは自分の中の神と繋がっているので、自分に集中している。
子育てのコツというのは、やりたいことをやらせる工夫が必要、に集約されるのかな。
そこを大事にしてくれる家庭教育であり幼児教育であり学校教育であるかどうか。
大人の都合をはみ出たとき「発達障害」と切り捨てたりしないかどうか。
ただし、じゃあやりたいことがテレビやゲームだからってそこを手放していいかというと、アレは人が「本当にやりたいこと」から切り離す意図のあるアイテムだと思うんです。
つまり人を自分軸で喜びや楽しいことで人生を歩かせることを阻んで、闇に結びつけるためのもの。
他者に人生を支配されちゃうんだよね。自分の車のハンドルを自分で握れなくなっちゃう。
友達のダンナさんが毎晩結構な量の酒を飲んで、具合悪いって昼過ぎまで寝ていたのが、最近酒を減らしたら体も調子よく、酒を買うために散財していたお金も浮いて趣味の熱帯魚グッズを嬉しそうに買ってくるようになったって、人生の主権を自分に取り戻したんだなあ、良かったねって素直に思いました。
アイテムがお酒に限らずこういうことってたくさんあるんだろうなあ。
「生きている以上何者かにならなくてはならない」
というのが、現代の貨幣経済を生きる私たちの、最大の強迫観念。
現代の社会も教育もすべてここから始まっていると言っても過言ではないでしょうが、それが本当に生きたい生き方なのかしら?
人生をお金に紐づけすることが、すべて悲劇のはじまりなような気がする。
好きなことを仕事にするっていうのは、自分の神性をお金に換算するということで、人によっては逆に抑圧にもなったり。
大人の目から見て「良くできた子ども」というのは、つまり、「その時の社会の価値観にばっちり合った子ども」という意味で、歴史を振り返ればそんな価値観ほど流動的なものはありません。
その時の価値観だけに無理せず合う子どもって本当に一握りで、問題がないと思われているような子どもの大半は、外側の評価を取り繕うためにがんばってしまう。
何年か後に価値観が変わっていったときには、本当の自分に還れずに疲弊するでしょう。
いずれ世界はお金の要らない世界に移行していくと確信していますが、お金のためでない本当の生き方を問われたとき、我々の子どもたちが「自分と繋がっている生き方ができているかどうか」は、今私たちが自分と繋がった生き方をしているかどうか、に集約され、明暗をわけていくんじゃないかなと感じます。
大人の、なんとかしてあげたい、なんとかせねば、という心配する気持ちはわかるし有り難いけど、子どもをそもそも信じて待ってほしい、と長男の担任の先生にこっそり思う今日この頃…w
なんてマニアックなことを考えながら観覧していた運動会でしたと。
なにが素晴らしいって、子どもたちは勝ち負けでなく、仲間と支え合い、個の違いを認め合いながら成長しているのがホントに良くわかるのですよ。
年長になると、「帰りの時間です」とマイクで放送するという権限が回ってくるのですが、ずっとマイクを前に話せなかった次男が、つい最近ちゃんと喋られるようになって、その時同じクラスの男の子がお迎えに来た私を見つけるなり走ってきて食い気味に「ゆーりがピンポンパンポンちゃんとしゃべれた!!」と自分のことのように報告してきてくれまして。
この子は一般的には療育に通うタイプの子なのですが、いつもまっすぐ友達と向き合って、良いことも悪いこともストレートにぶつけてくる、純粋な魂の男の子なのです。
何が良くてなにが悪いかなんて本当に、ない。
子どもたちには光そのままの魂で成長してほしいな、と願います。
そして汚れた大人である私wは、自分に集中する時間を作って浄化するべく、一円もカネにならない趣味を作ろうと思いましたww
せっかく生まれてきたんだし。子どものように人生を楽しもう~~