次男劇の会と、長男1/2成人式と、次男卒園
皆さまおはこんばんちはです♡
いかがお過ごしでしょうか。
めっきり春めいてきて、うちのビオトープのメダカさんも動きまわり始めました。
冬の間は寒かったので動かず、ご飯も食べず、体もキュッと締まったお魚さんになり。動かないと食べないとはお魚さんは優秀ですね。反省。
魚類は変温動物なので寒いと動かなくなるけど、我々人間は恒温動物なので、どんなに寒くても体温を上げていこうする生き物。
だから身体が冷えると基礎体温まで体温を上げようと体力を消耗します。海でおぼれる人はこういう理由で体力が尽きておぼれるのよね。泳ぎが云々じゃなくて。
ここに「頼むから寒い恰好はするなあああ!!!」の根本的生物学的物理学的理由があるのでございますよ。
西原先生方式で全て口に入るものを42度まで上げて食すると、相当温存されて体を作る力に体力を回せるので、不妊の人は子どもを作る力も出るし子どもの不具合もなくなるし、アラフィフお母ちゃんのアンチエイジングになりますわよ。
お試しあれ~♡
長男10歳、次男6歳。
色々節目の行事が入れ食い状態の春です。
このコロナ禍で制限されつつもなんとか工夫しつつ最大限にやってあげたいという学校や幼稚園関係者の気持ちがビンビンに伝わってきて、本当にありがたいです(´;ω;`)
特に次男は年長で、3年やってきた成果刈り取りのとってもとっても大事な時期。
みんなの成長がこの年長最後の「劇の会」に集約されるので、どんなにミッションインポッシブルでもやり遂げるぜという園長の気合と決断が素晴らしいw
長男の幼稚園の時は行事らしい行事はほとんどなかったので、運動会はともかく作品展とか劇とか、必要?と最初はあまりピンときていませんでした。
確かに保護者に見せる「先生方の成果発表会」ならその時間もったいないから子ども外で遊ばせてくれと思うでしょうが、うちの幼稚園での行事は子どもの成長のための大事な大事なキッカケ作り。
そこまでやる?と保護者全員が感動するくらいひとりひとりにとことん寄り添い、子ども自らが「できた!超えた!」という気持ちを創っていくことに徹底してフォーカスしています。
だから地味だし、見た目「よくできた」劇ではないけども、ひとりひとりが成長した姿に母ども号泣で化粧流れてアラフォーのお顔が大変なことにw←平均年齢割と高めww
うちの地味男の次男様、年中さんの劇の時は、「やらない」の一点張り。
とにかく絶対やらない、やらない、やらない、で、本番一週間前にクラスの子が、ひとりでは恥ずかしくてできないから手伝ってくれないか、と言われ、それでも2日考えて、それならやってもいい、と、「ゆーりが承諾した!!」とお便りが回ったほどw
そこまで待ったもらったことに実は大きな大きな意味がある、と今になって知るんですが、そんだけゴネて彼がやったのは、ミミズに見立てた毛糸を咥えて右から左に走り抜けるフクロウさんの役、という、どこを見ていいか全くわからなかった年中の劇の思い出w
なのでね、芝居の内容もやる場所も環境もずっとレベルアップする年長の劇にうちの子が出るはずはないだろう、と、もう裏方でいいじゃないか、と、音響とかライトとかうちの子きっと役者というより監督タイプなのよと腹を括っていたのですが(実際どうしても出たくない子にはそういう任務が与えられます)。
なのに今年はなんと、最初からやるつもりになっている(゚д゚)
そしてなぜか最初から「村人役」チョイス。
もちろん主役ではなく、みんなで石を掘って石垣を積み上げるという地味~な役。
アレか、セリフのないその他大勢に紛れてとりあえず参加した感出してお茶を濁すつもりだな、と思っていたら。
その村人役にクッソ本気なんですよ!!
めっちゃリアルに鍬を振り、豆絞りで汗をふきふき、紙の岩をとんでもなく重そうに運ぶ!!
おマエ村人の劇団四季!!
そこに園長からのお手紙がささやく。
「子どもに役の上下はない」
目からウロコがポロンポロン。
そうか、彼は村人を、やりたくてやっていたのか。
「地味な役」と思っていたのは私で、主役を張ったりセリフの多い役をやることが「いいこと」だと、「良くできた子ども」で「他の子どもに勝っている」と思い込んでいたのは私で。
「先生の成果発表の劇なんてフン」と思っていた私の思考が一番、成果発表を期待していたんだな、と、愕然としました。
彼には、主役を張って目立ちたいとか、セリフをたくさんしゃべって高評価を得たいとか、そういうヨコシマな気持ちは微塵もなく、ただ自分がやりたくてこのチョイスだったから、ここまで真剣になりきれた。
他の子どもたちも、みんなで劇を作るということにひとりひとりが自主的にフォーカスしているので、どんな役も重要で、みんながひとりひとりに真剣にフィードバックしている。
役を決めるときも、やりたい子が複数出ると自主的にオーディションをします。
いつもは身体も声も小さい女の子が、どうしてもやりたい役に立候補し、オーディションしたら、「そんなに声が出るの!」というくらいすごい演技だった。
でも本人はそう言われてもキョトンとしていたそうです。
そのくらい人の「やりたい」という気持ちと「決める」という気持ちには、計り知れない力がある。
そこを引き出すために、先生たちが色んなタイプの子に徹底して寄り添う。。
みんながカオスになって劇の練習をしている隅っこの机でひとり迷路かなんかをやっていたうちの息子に先生が、「あれわけわかんないんだけど何やってるか教えて」と言ったら、めっちゃ詳細に状況説明したそうで、見てないふり参加してないふりして実は誰よりも前のめりで参加していた、次男。
こういう子もいるんですよ~と例に上がってたw
途中でいなくなっちゃうタイプの子には、とっとと覚えちゃって何度も同じことをやることが苦痛でいなくなったり、入り込み過ぎて疲れちゃうから自主的に避難したりと、言葉を発さないだけで個々の子どもには色んな理由がある。
それをただ、「その場に最初から最後まで大人の望む形で参加するのが良い子ども」という価値観だけで押し込めると、子どもの個性を読み違う。
参加しない子、座っていない子、いなくなっちゃう子、みんなそれぞれに「肯定的理由」があって、そこを尊重してもらった思い出が、子どもを大きく成長させます。
細かく書いたけど、同じ理由で悩んでるお母さんがいたら是非心にとめておいてほしいと思いました。
あ、うちの子そんな感じ!と思ったら、順調に育ってる証かもw
だってね。
人には、内側の自分と外側の自分がいると思うんです。
「ホンネの自分」と「タテマエの自分」。
それ自体は普通のことで、良いも悪いもない。
どちらも同じだけ大事にできるか、が、人生が楽しいか楽しくないかのコツなんじゃないでしょうか。
何言われても「どっちでもいい」と人と合わせているのは、タテマエの自分だけ大きくなりすぎて本当にやりたい人生を歩めないですよね。
大人の都合の良い子どもを演じていると、「どっちでもいい」という発言ばかりになる子どもになる。
自分をあきらめてしまっている。
ただ座れる子どもを作るなんてとても簡単だけど、座りたくて座っているのか、座っていると褒められて評価が上がってお母さんが喜んでくれるから座っているのか、は、座っているという事象は同じでもどっちの自分を大切にしているか、という面で大きく違ってきます。
我々昭和の世代はただただ箱に押し込められてきた教育だったけど、これからの子どもたちには通用しないし社会も人に求める部分が大きく変わってきているので、自分をあきらめてしまった人材自体が通用しなくなるんだろうな、と感じてます。
「待ったもらったことに実は大きな大きな意味がある」
と先ほど書きましたが、これがどういう意味を持つかと言うと、
「自分で決めたことはやり遂げる」
という、人の特性の根幹に関わってくること、ということなんです。
だから、「決める」という力を育むことがとても大事になってくる。
決めるところまで待ってもらうと、どんだけ大人が悠々の時を感じようとも辛抱強く待ってもらうと、最後の最後で、人は自分の言葉で語りだす。
パパッと決められる人もいるけど、半分くらいは「周りを待たせているから」妥協が入ります。
うちの次男は年中でぐじゅぐじゅした分、ものすごく「決める」力がついてきたなあ、というのと、私も彼の本音を引き出す「コツ」をつかみました。
彼は靴を選ぶのも、とても時間がかかります。店員さんに一度ご退室願うくらいw
でも時間がかかるのは、彼なりに見た目と履き心地と走りやすさを熟考しているだけで、一度決めるともう他の靴には見向きもしません。
ただその靴を愛します。
大人である私は色んな事情からどうしてもせかしたくなるのですが、彼が「決める」ところまで待ってあげると、あとがとてもスムーズであることに気が付きました。
極めつけは。着物。
次男が劇で村人役をやったのにはもうひとつ、実は「着物が着たい」という気持ちがあったのです!こだわるところソコ!?って感じww
衣装合わせでワクワクしながら衣装を着たら、村人なんで、彼の予想に反してモンペだった。
彼にとっては「モンペは着物でない」という判断だったらしく、珍しく文句を言っていた。
一応と思って担任の先生に掛け合ったのですが、「いやあ村人はモンペじゃないと岩が運べないしねえ、ゆーりに言っとくわ」
劇の話はここは終わったのですが、それでも私が気になったので、
「ゆーり、着物が着たい?」
「うん、着たい」
「卒園式、着物着る?」
「うん、着る」
「言ったね?今言ったね?着るね?絶対着るね?言ったね?じゃあ言うけど、うちの園で着物着るのって他に誰もいないと思うよ、多分アンタ一人だよ、それでも着る?」
(ちょっとひるんで)
「うーん、どっちにしようかなあ、神様に聞いてみよう…、ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な、……着るって、出る」
「結局着たいのかw、じゃあ予約するぞわかったね?」
というやり取りからの、コレ↓
見事にやり切りました。
彼は見事に、「自分で決めた」ことに対して、やり切りました。
そして私も、彼の本音が出るまで、ここまで待つことができました。
私にとってこれほど感慨深い着物はないんですよ~!!(´;ω;`)
(大人からしたら結構なくだらないレベルの話だけど)この着物姿は3年間の集大成、色んなことが報われた、この瞬間でした。
卒園に着物は長男も着たけど、アレは私が「着せた」、だから長男は「ママが着るなら着る」と条件を出した。
あのころはそんなことも考えもしなかったからねえ。
このころ絶賛授乳中で、どうやって着物で授乳するかで盛り上がった思い出がw(正式には身八つ口というウワサ…よっぽど巨乳か伸びる乳首か志村けんじゃないと無理な気がする)
人は自分で決めると、自分の行動に責任を持ちます。
どんな小さなことでも人に決められたことをやることは、抑圧になる。
だから他人軸になり人の評価ばかりが気になり、自分の人生を歩みにくくなる。ああ耳が痛い…( ノД`)
だから折あるごとに園では「決める力がついたかどうか」を見ている、と言われていたのか、と卒園近くになってようやく気づきました。
子どもひとりひとりの決める力を引き出すために、最大限のサポートをする。
次男は、100人近くいる卒園生の中でたったひとりになろうと、自分のやりたかったことはやり切ることができた。(結果的にはうちの子含めて袴姿が5人もいたんだけど…流行ってんの?)
自分で決めることができた。
これから先小学校へ行って、想定できないような色んなことが起こるでしょうが、この「決める力」を持っていれば、どこへでもやっていけそう、という自信があります。
子育ては色んな悩みが尽きないことが普通のことだと思います。
この子はどうしたらいいのか、どうなっちゃうのか、親の心配は尽きないでしょう。
そんな時、「私たちの役割は、子どもが自分で決められる力をつけることだけだ」というところだけにフォーカスすると、子育ても迷子になることが少なくなるんじゃないかな、とこの園に3年間お世話になって感じたことです。
そして、親や大人の都合に合わせるのでなく、子どもの決めるところを待ってあげられる社会が実現すると、いいですね。
長男の1/2成人式も、子どもたちがやりたいことをできるだけ実現させてくれた式でした。
子どもたちが自分で企画進行し、自分たちの言葉で語り、みんなで作り込んだ、気持ちがたくさん伝わってくる素晴らしい式でした。
休み時間も自発的にずっと話し合ったり楽器の練習をしたり、先生方もこの状況で開催の決断そのものが大変だったろうに、子どもたちに任せここまで見守ってくださって本当に感謝です。
保護者と子どもの間でお手紙の交換したり、決意の言葉を述べたり、みんな精一杯頑張っていて、ここまで大きくなったんだなあと感慨深いです。
子どもたちが大好きなお父さんお母さんに喜んでもらいたい、という姿がたくさん伝わってきて、やっぱりぼろ泣き~
1/2成人式って言い得て妙だなあ、ちょうど10歳って、方向性が変わっていく節目なんでしょうね。私の子どもの頃はなかったから羨ましい。いつの時代ってツッコミはなしでね?
今までの子どもたちの世界でのベクトルは親でした。彼らにとっての社会=家族だったから。
この目がいよいよ社会に向いていく。ここまで十分に家庭で存在を認めてもらった子どもたちは、その自信をバックボーンにまっすぐに社会へ目を向けていけるでしょう。
これからはお父さんお母さんが大好きと言う気持ちをそのまま、社会に向けてほしいなと思い、以下の言葉を送りました。
「恩送り」という言葉があります。
良いことをされた時その人に「恩返し」をしないと、と思うと、世界が広がっていきづらいですが、その気持ちを是非、他の人に送るという「恩送り」をしてください。
お父さんお母さんに返そうとするのではなく、これから関わる全ての人達に送ってください。
そうして、住みやすいステキな社会を自ら創っていってください。(めっちゃ要約)
これから大きく変革していく社会に生きる子どもたち。
自分たちの力で思いやりにあふれた社会を創っていってほしい。自分のことは大棚にあげますけど…
最後に、
次男卒園アルバムに書いた、寄せ書き。
今だけを生きる彼らしい発言だなあと思いましたw
さあ~次は小学校だ!
まだまだネタは満載だ~!
ではまた次回~