我流の幼稚園選び?

つぅ〜な話 西原式育児の実践と検証

初めての幼稚園選び。
初めて社会に出す環境を親自身が選ぶ…、誰でも緊張し、悩ましいことであります。
うちのは再来年に入園、まだまだ先と思いきや、最近はプレなんかもあって2歳の今動くのがフツーのようですね。

私自身、人生で幼児教育に興味をもったことがないので、どんな幼稚園がいいのか、どんな教育法があるのか、さっぱりわかりません。
でもまあ、こんな風に選ぶのもまた、楽しいもんだし♪
幸い、私の住む市は、東京郊外のベッドタウンなせいか、幼稚園がとても豊富なんです。

幼稚園を私なりに分けると、以下のようになると思います。
?園バスがあり、給食があり、延長保育あり、の、親の要求を優先したいわゆるフツーの幼稚園。
?英才教育な幼稚園
?超自然で鍛える的なスパルタ幼稚園
?特殊な教育法を取り入れている幼稚園
(あえて?と?は区別)

(あくまでも私見です。特定のやり方を批判しているわけではないことをご理解くださいませ。)

写真は1歳半くらいの頃だったかな?
うちのすぐ近くの公園に遊びに行ったら、ちょうど幼稚園の遠足が来ていたのでした。
飛んで火にいる夏の虫、うっかり体験入園状態、大量の園児にもみくちゃにされ、山の斜面を利用した大きなすべり台にお姉ちゃん達に手を引かれて滑り落ち、その上にまた園児がボタボタと落ちてくるという、なんで泣かないのか不思議だった…。
ここは、園バスあり給食アリの、?の典型的な幼稚園です。みんな元気でいい笑顔、一見屈折したところもなく楽しそうで、いい幼稚園なんだろうな、と思いました。
だけどね、ざっと見ても確実に100人はいる園児に対し、先生が3人しかいないんですよ〜!!
みんな同じスモッグに名前を大書きされて、そりゃ分からなくもなるだろうなー、って感じ。
フツーの幼稚園が経営的に成り立っていくためには効率が必要で、マンモス化も仕方ないのでしょうけど。
友達の甥っ子が小学生になってから、自分の卒園した幼稚園を訪問したら、先生が全く覚えていてくれなくてショックだったそうです。
これらのことが、?の幼稚園のすべてを集約している。
正直、うちの息子は人見知りなんてしたこともなく、環境にもよく順応するので、こういうところでも充分やっていけるとは思うのですが、やっぱなんか寂しいよねえ。
良いところしか見せない説明会にじゅうたん爆撃ばりに行かなくても、だいたい分かっちゃったなあ、と思ったのでした。

?は私的に全くありえないので、ナシナシ。
幼児期にバック転できたり絶対音感つけさせたりバイオリンやらせたり、なんか意味あるわけ?
詰め込めばそれだけ出て行くだけ。
音楽や絵画の先生呼んで、それ画一的なセンスを押し付けているだけだし。
子供にとってどうか、というより、受験世代の親の財布を狙ってるだけ、に見える。

前に「里山っ子たち」という映画を観ました。
託児付き、というエサに食いついただけで、どんな映画かも全く知らなくて観たんだけど。
「危険な」里山で子供を遊ばせるという、千葉の保育園のドキュメンタリー。
?の自然派スパルタ幼稚園(ここは保育園だけど)のお話です。
観ている人は「ああなんて良い環境なんだ」としか思わない方々ばかりなんでしょうけど、ここでも世の中を斜に見る私がムクムク出てきてねー。
「こういう環境の子供達はみんな幸せに違いない」という監督の思い込みばかりが目立っちゃって。
別に普通の幼稚園でも、外で遊べばみんないい顔になりますけど?
大体、里山に入ることを許されているのが年長さんだけ、というのが気に入らない。
里山に入るというゴールのためだけの0〜5歳児のQOLが全く見えてこないの。
里山が本当にすべての幼児にとって楽しいのかどうか、ということも考える必要がある。
ここでもやっぱり「こう育てたい」という親の気持ちばかりが優先しているように感じるんですよね。
私の住む地域でも似たような幼稚園があるそうですけど、自然は結構だけど、そこまでスパルタが必要かなあ、というのが私の感想です。

?は、モンテッソーリとかシュタイナーとか、そういった教育法を取り入れている施設、になると思います。
人生において幼児教育に興味を持ったことが全くないので、聞きかじりとググる程度にしか知識がありません。ま、実際に入った人以外はほとんどそうだと思うんだけどね。
友達が2歳児連れてモンテッソーリの幼稚園に何度か遊びに行っていたんですが、少人数で、オモチャはすべて手作りだし、馬なんかもいて、夢のような、ほんっとーに素敵な幼稚園、だそうです。
もう本当にここにしよう!と半分決めていたそうですが、ふと思ったそうです。
「一生こういう環境で暮らしていければいいけど。」
うん、私もそう思う。
すごく素敵だけど、ディズニーランドのように感じるんだな。
私たちがよく行く清里の「八ヶ岳倶楽部」、俳優の柳生博が経営するギャラリーカフェですが、彼が木一本から植えた雑木林の中に建っています。
彼の孫は小学1年生の時、ナタを持ってそこを走り回っていたらしい。
彼の息子・柳生慎吾は、中学生の時すでに重機の扱いを柳生博に習っていたらしい。
でかい岩をユンボで吊り上げるんだけど、その下に柳生博がいる。
ちょっとでもバランスを崩したら確実に岩の下敷きになるんですよ。
ナタを持って走り回ることも、ナタとはどう扱うのか、どれほど危険なものなのか、を教えられているからこそ許されること。
モンテッソーリの真髄って、こういうことなんじゃないかなあ、落ちたら割れるグラスを使う、とかそんな小手先のことじゃなく。
このくらい親が「必死」にならないと、本当の生活の智恵は伝わらないんじゃないかなあ。
こういうことをメソッドにして幼稚園という他人にアウトソーシングしても、ちゃんと伝わらない気がする。
幼稚園でモンテやってても、うちで電化製品にテレビにDVDだし。
むしろモンテのやり方は、小学校で必要に思う。何とかしてくれ今の公立小学校〜!!
あと、根底にあるキリスト教観は、日本人には理解できないかも。
私自身、クリスチャン家庭に育って、それこそ腹にいるころから教会に通ってましたけど、それでもあの選民思想は日本人には理解できない。
日本人にも特定の宗教の人はもちろんいるけど、そういう人はその宗教の施設に積極的に入っていくだろうから、その他の八百万の神様オッケーな日本人に、キリスト教の思想そのままを輸入は無理がないだろうか。
さらにシュタイナーは、その初期にナチスドイツの影響があったことは忘れてはならない、と思います。
まあ、いいとこだけ取って、くらいなら良いのかもですけど、あんまり突き詰めると大変なんじゃないかな。
(前に、通りかかったお寺付属の幼稚園に「モンテッソーリ教育」と書いてあって笑ったw。究極の八百万神発想、と言えなくもないパー

どのやり方にも一握りの天才はいて、そのパーセンテージを上げるのが各教育法の目的、なんでしょう。
わが子に天才になってもらいたい、どの親も思う親心ですよね。
私だってアタマ良くなって欲しいから西原育児やってるんだもん、究極。
しかし、教育の最終目標が「天才をつくること」で果たして正しいのでしょうか。
私は違う、と思うんだな。
親は無意識に自分の子供時代のやり直しを求めちゃうんだけど、「子供に何を求めるか」ではなく、「どういう人間になって欲しいか」を意識して考える必要がある。
そう考えると、一番必要なのは、それこそルンペンになっても這い上がれるような、「どんな環境でも生き抜いていけるたくましさ」なんじゃないだろうか。
そのためには、極端に環境を制限したり、何かのメソッドに偏ったり、体ばかり鍛えようとしたり、反対に放任すぎてもいけない気がする。
お釈迦様の修行の答えも「中道」だしね。

子供に、「どんな環境でも生き抜けるたくましさ」をつけるためには、どうすればいいのでしょう?

以下、続く。