マイナスの言葉がつくる人生

いきなり衝撃タイトルですんませんw

別に世間にケンカふっかけているわけじゃないのよw 

 

とりあえずクッション画像置いとくか。

先日次男幼稚園運動会がありましたん。

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今年は予行から半袖半ズボンにしてやったぜ。

去年は長袖長ズボン履かせて、全学年向けのお便りでキビしく注意されたぜw←長袖長ズボンだったのうちの子だけだったから名指しされたも同じww

絵本「とべバッタ」の音楽劇でバッタ役になるらしく、バッタに見えるよう服は全身青で揃えてみた。

バッタは緑だって?全身緑にするとガチャピンになるんだよっ!

 

こちらは長男作・プラレールツインタワー。

どんなプラレール博でも、らせんで完全ループするよう組んでいる作品には今まで出会ったことがないぞ、と。

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これはこの間開催された西原式研究会オフ会にて、会場に我が家のありったけのプラレールを運んで、長男じきじきに作り方を伝授しましたw

「おかあさんたちへ。まず、大量に線路を買ってください」

という長男のアドバイスが、吹いたww

 

 

えーと、本題。

ここのところ、波動とか量子とか、そういう、今まで「オカルト」と一笑に付されていた分野が、にわかに台頭していきているように感じます。

特に令和になって顕著だなあと、思います。目覚め始めた人が増えてきたというか。

例にもれず私にもそういう出会いがあり、その分野にお世話になり始め、今までの自分の中での様々な矛盾点が統合されつつあります。

人はみな課題をもってこの世に生まれてきますが、生きづらさや人生の課題、そういったものの根っこはどこにあるのか、どのように解消していくのか、リアルに体験できていて大変面白いです。

 

体験していて驚くのは、人の人生でのネガティブな言葉や、抑圧、恐怖、そういったマイナス体験というのは、ここまで人の心や体に影響しているんだなあ、ということです。

人は誰でも生まれたときは100%光だそうですが、その魂の人生での課題を2,3歳くらいには近親者から受け取るそうです(親とは限らない)。

それは、恐れだったり、怒りだったり、憎しみだったり妬みだったり、人により色々ではありますが、生を受けたこの世でそれらを体験しながらまた、光へと還っていく。

人によってはなかなか重い課題だったり、考え方のクセのようなもので解消しづらかったり。

「自分と向き合うこと」そのものを課題として生きる魂もあるようで、それは一番辛いなあなんて思ってしまう、向き合えない違和感を感じながらも色んなところかじり倒しては、自分探しの旅を放浪しちゃうもんね。

 

そもそも観念でがんじがらめの人は、人生そのものがマイナスの言葉で固められまくっているように感じます。

物事には必ず光と闇の二面があって、マイナスの言葉で固まっていると、とにかく闇の面ばかりを拾いたがる。

その根っこはどこにあるのか?を探ると、親との関係だったり、今までかけられてきた言葉だったり、色々です。

 

人の意識には、顕在意識と潜在意識があります。

顕在意識とは、私たちがリアルに見たり感じたり思ったりといった、「体験できる」意識のことですが、これは全意識の中の10%に過ぎないそうです。

脳みその90%は潜在意識、つまり大部分は無意識で、私たちが意識的にどうにかしようと思ってもできない部分です。

ここに入る色々な情報や言葉は、実際の私たちの人生に大変大きな影響をもたらします。

そして潜在意識には、難しい言葉は入らないそうです。

例えば、最近の口の悪い子どもがよく言いますが、友達に向かって「お前死ねよ」と言ったとする。

顕在意識は、他人に向かって死ねと言い放っているのに、自分の言葉を一番聞いている自分の無意識は「死ね」という言葉を拾ってしまう。

つまり、自分に向かって「死ね」と言っているんですね。

究極の自己否定。言葉がどれだけ恐ろしいものか、がわかります。

そしてその、友達に向かって「お前死ねよ」と言っている子どもは、さて、何が原因でその言葉を発しているのでしょう。

 

私自身は、普通に母子手帳育児で育てられた、大変自己肯定感の低い、普通の日本人です。

子どもの頃は人見知りは激しいし、しょっちゅう扁桃腺腫らしてろくすっぽ保育園も行けてなかったし、ずっと泣いていたことしか記憶にないし、頭も運動神経もよろしくなく、いじめにもあっているし、まあ言ってしまえば「かわいくない子ども」でしたよ、ひいき目に見ても。

私の頃は食べ物も薬もワクチンも世代間濃縮が低かったので、アレルギーなどがないのが救い。そもそもアレルギーといわれる子どもはほとんどいなかったと思うわ。(アレルギーという概念そのものがなかったはず)

私の自己肯定感の低さに至っては、もうね、むしろ台所の河口あすかに「おしげさんはどう褒めたら受け入れてくれるんですかっ!」とさじを投げられたくらい、自分を認めなかった女ですw

例にもれず、闇が大好きで、物事の闇面ばかり拾いますし、被害者意識のカタマリですし、少し前までは「怒りは世界を変える」と本気で信じてました。(怒りは世界を変えない、と知った時の私の愕然ぶりったら…うつみんに教えてあげたいw)

 

でもね。

自分の子どもに関しては、闇を拾うことはほとんどないんですよ。

なぜだか、「この子は100%光だ」とどこかで固く信じているところがあって、この子のありのままでいいんだ、余計なことは必要ないんだ、と、疑うことがないんです、この10年近くずっと。

だから、何があっても、子どもに対して心配というものをほとんどすることがないの。

こんなハチャメチャな、子どもなんて元来好きでも何でもないし、闇ばかり拾う人間で親としてどうなのよというこの私が、自分の子どもの闇だけは拾わないなんて、おかしな話じゃないですか。

本来なら絶対、虐待親案件ですって。

むしろうちの幼稚園のママたちなんて、子育てについて本当に良く勉強しているし、子どもに対してもとても我慢強い。

だけどその努力に見合った結果が出ているかというと、まるで小さい頃の私を見ているようで。

 

なんでだろう?と思ってて、気づいた。

西原式育児はまさに、「子どもはありのままで全てを備えた素晴らしい存在であり、我々は限界まで余計なことはしてはならない」という、徹底して「性善説」な育児である、ということなんです。

子ども自身も、余計なことをせず育てられるので体が不快でなく、ネガティブな行動や考えをしなくてすむので、周囲からのネガティブな言葉がけも格段に少なく、闇を拾わないんです。

つまり、本能に根ざした、「子どもの光を拾える唯一の育児」なんですよ。

心身は一体、特に小さければ小さいほど体の不快は心のダメージに直結します。

どんな理由であれ身体が「被害」を受ければ、心には文字通り「被害者意識」が育っちゃうわけですよね。

この被害者意識がどれだけ厄介か、これがどうにかなるだけでも人生相当思い通りですわ。

前にも書きましたが、自立というのは、どれだけ物理的に皮膚感覚を埋められたか、に尽きるんですって。

そこ埋められてない人って多くって、偉そうにぶっこいてる爺さんでも実は自立してない人が多い。

充分に皮膚感覚を満たされた子は、安心して外へ出ていける。

逆に体に辛い思いをすれば、文字通り被害を被り、心の中には被害者意識が育っていく。

それほどまでに、心と体は一体であり、体への不快は心にダメージを与えていくんです。

 

お友達の子どもに、兄(6歳・アトピー喘息気味)と弟(4歳・アトピー気味)がいました。

ある時弟君がお母さんのお手伝いで、何かを並べるということを思いつきました。

発案者は弟君ですが、同じことを兄君もやりたがったので、交代で、ただし発案者の弟君が優先で、という、よくある展開になりました。

並べ終えて、同じことをもう一度やろうという時、兄君は自分と弟が並べた回数を正確に覚えていて、

「ボクは〇回『しか』やらせてもらってない!」と怒り始めました。

弟君は兄君が怒ると痛い目にあうのをよく承知しているので、あっさりとその場を譲りました。

ここで兄君は本来なら「やらせてもらっている側」であるはずなのに、「〇回しかやらせてくれない」という「被害者意識」だけが記憶に残って、弟が譲ったこともたくさんやらせてもらったことへの感謝の気持ちも、良い記憶はひとつも残りませんでした。

兄君は、闇を拾う思考癖がもう、こんな小さなころから身に沁みついている。

お母さんやお父さんが何をやっても、どんなに彼を優先しても、彼には「~してもらえなかった」という気持ちしか残らないんです。

実際イヤイヤはひどく手のかかる子ですから、親は「あの子にはあんなに手をかけたのに」という気持ちを持ち続けますが、子は「辛い気持ちをわかってもらえなかった」という反対の気持ちをずっと持ち続ける。

ここにとても不幸な親と子の不咬合が生じてしまうのです。

なるほどこうやってネガティブな記憶は形成されていくのかーと、目の当たりにしました。

この場合暴力で我慢を知る弟君にも、良い影響にはならないでしょうね。

こういった思考癖が人生に大きな影響を与えることは想像に難くなく。

身に覚えはありませんか?

私はありますw

 

幼いころの記憶って、幸せだったかしら、不幸だったかしら?

私には、泣いていた記憶しかありません。

でも私にだって良いことも楽しいこともたくさんあったはずです。

父も母も、ひとりっ子だった私を一生懸命育ててくれていたのはわかっています。

なのに、闇を拾う思考癖が身に付いているから、私には楽しい記憶があまりないんです。

そして私が泣いていた記憶は、体が辛かった記憶と直結しています。

子どもの頃の記憶が楽しい記憶である、つまり心身ともに満たされた自己肯定感の高い子どもを育てるには、体に不快のない育児をしてやることが最も近道であり、最も簡単で根本的であるのではないか、と私は思うのです。

だってね、親になる人はみんなが生まれつき子育てのプロですか?

寝ても覚めてもイヤイヤイヤイヤ、あれは嫌だこれは嫌だママ大嫌いパパ大嫌いって暴れられて、毎日どこで地雷を踏み抜くかビクビクしながらひたすら嵐が過ぎ去るのを待つ育児って、一つのネガティブな感情も持たずに子どもを育て上げられるかと言ったら、出来る人はいるのかもだけど、正直私は無理です。人間だもの。byみつを。

なんだっけ、お父さんが額の汗を拭ったらそれが地雷になって暴れまくって、通行人に「誘拐犯です」って通報された話があったなこないだ。

お父さんは世間の無理解に憤慨してたけど、違うよね。このくらいの子どもが、保護者が誘拐犯と通報されるくらい暴れるのが人間のデフォルトだとしたら、とっくに絶滅してます私たち。

子育てが不自然に感じるとしたら、それは自分や子どもや社会が悪いのではなく、育て方そのものが不自然である可能性はないでしょうか?

 

実際、うちの子どもたちには、無意味に暴れることもないし、闇を拾う思考もほとんどありません。

これは、自分の消化能力を超えるようなものを食べることなく育ち、胃の熱が上がりづらいから、ベースが穏やかでいられるんですね。

消化が負担で胃熱が高いと、隣の臓器である心の熱や肝の熱が簡単に上がってしまい、それでなくても子どもは陽の気が高いのに、何かがあればすぐに振り切れます。

まさに一触即発、本当に些細な、どうでもいいことでキレたように暴れたり泣きわめいたりする理不尽は、ここから来ています。

ちなみに、肝は怒りを司り、心は喜びを司るので(この場合の喜びは躁鬱病躁状態を指す言葉)、肝の熱が振り切れていれば怒ったり泣きわめいたりし、心の熱が上がりきっていれば多動のような症状で現れます。

 

先日、2歳半くらいの、ちょっと心熱が上がってる男の子が、次男が一生懸命組み立てていたレゴをひっくり返しました。

「この人ってこんなに怒ることあるんだ〜」ってくらい次男様怒ったんですけど、数分で収まり、高いところに避難させたレゴの警備員に変身w

このあと、心熱の高かった男の子にある処置をして心熱を下げたら、すっと落ち着き、すぐ二人は仲良く遊び始めました。

つまり次男は、されたことを根に持たず(闇を拾わない)、平常を取り戻した男の子とはちゃんと遊びを再開したのです。(これ、誰も彼も仲良くしなさいと強制したら返って歪むよね)

普段から内臓の熱が上がってない次男は、怒っても数分で済み(我慢せず怒りを出せた、というのも大事)、さっと切り替えることができました。

これが胃熱が高いと、振り切れたままなかなか元に戻りません。

延々とぐずり続ける子どものお腹の中は、こういうことになってます。

切り替えができない、とは、子どもなりにこういう事情があるのです。

決してお母さんを困らせようと思ってやっているのではなく、本人すらアンコントローラブルな状態であり、その子が否定されるべきではないのです。

どれほど食べるものが大事か、消化が負担でないことが大事か、ということですね。

ちなみにこの心熱の高かった男の子はその後、お母さんの突出した努力とアンテナにより、今は光の道を歩み始めています。

子どもの現在地を認め行動するこのお母さんは、本当に素晴らしいです、脱帽です!なかなかできることではない〜

 

長男も小学校へ行きはじめてから、色々周りに影響されている部分はありますが、根っこは自己を肯定する力があると信じられるので、困難が起こっても、それも彼の今世の体験だと思って放って、じゃない見守ってwおけます。

だから、何かあっても、彼を信じた声かけができます。

フェイスブックでも書きましたが、先日こんな事件がありました。

 

 ある朝、長男学校へ送り出して洗濯物干そうとしたら、長男クラスで持ち回りで世話してるトカゲが、死んでいるのを見つけちゃいまして。
したら、だいぶ行ったはずの長男が走って戻ってきたから、
「忘れ物?トカゲならお亡くなりだよ」
「え?!うそ?!……………ホントだ……」

「……新しいの捕まえてきて戻した方が、みんなに怒られないかもしれない」

へえぇ〜〜この人でもこんなこと言うんだ〜〜
と、内心思いながら、
「そのまま持って行きなさい、今からじゃ間に合わないから、洗濯物干したら車で送ってってあげるから」

「僕ちゃんとお世話したのに」
「そうみんなに言えばいいじゃないよ」
「だって、信じてくれないかもしれないじゃん。C君とか、きっと言うよ、何でちゃんと世話しないんだよ!とか。」
朝からだいぶ落ち込みのようで、ああめんどくせぇ展開になったなあと思いながら。

「あのね。
生き物は死ぬのよ、特に自然で生きてたものなんだし、最初から病気だったかもしれないし。
誰が世話をしても誰の家にいてもいつかは死んだの。
死んだという事実は事実でしょ、そこから自分がどう行動するかが問題なのよ。
そりゃね、新しいの捕まえてきてごまかすこともできる、なんならみんなが忘れるまで黙ってることだってできる、何をやったっていい、どれが正解というわけじゃない。
だけど、その、自分が選んだ行動の結果は、自分が受ける、ということなのよ。
例えば普段、約束を守らなかったりいつも遅刻して人を待たせていたりしたら、楽しいことや大事なお仕事があっても、どうせあの人は時間に来ないからとかちゃんと仕事しないからとかでみんな声をかけてくれなくなっちゃう。
だけど、そういう人はみんなが声をかけてくれなくなった時、
『どうして僕だけ声をかけてくれないんだ!』
と怒るでしょう。
だけどそれは、普段の自分の選択の結果が自分に返ってきただけで、その責任を自分で取ってるだけなんだよね。

あなたはちゃんと世話をしていた、C君が、今日は僕は面倒だから世話しないって言った時も代わりに持って帰って世話をしていた、そのあなたの選択の結果も、あなたが受けるの。
だから、「死んだ」という事実は事実で、ちゃんとみんなに報告して、『世話をしていたけど死んじゃったよ、ごめんね、だからみんなで埋めるのを手伝って欲しい』と言ってごらん、今までのあなたの選択の結果がそこで出るから。」
と言って、虫かご待たせて校門へ突っ込んだ。
今日は朝から幼稚園運動会予行見に行ったりお当番バッジ作ったりで忙しいのよ、君のグズグズに付き合ってる暇はないっ!

で。帰ってきて。
「そういえばトカゲどうだった?」
「うん、みんな、そうなんだ〜って言ってくれたよ。みんなで明日埋めようね、ってことになったよ。」
「でしょ。それがあなたの普段の行動の結果だよ。それを信頼というのよ。」
満足そうに笑っておりましたとさ。

 

私も彼を100%信じているから言えた言葉ですが。

こういう展開ができると、親子のカルマって半分くらい解消できると思うんですよ。

そう、この育児は、脈々と受け継いできたカルマを自分の代で解消できる可能性すらある、と私は思っています。

 

そ  う  は  言  っ  て  も  。

正直、西原式育児メソッドだけで、そこまで到達できる人は少ないです。

というか、年々少なくなっているんじゃないかと感じる。

10〜20年近く前ならもっと打率は高かった気がするけど、今は、ちゃんとやってるのに湿疹だったりアレルギーだったり、イヤイヤが出てきたりと、私が経験した部分と違う、「どうしてだろう?」と考えざるを得ないパターンが多々出てきました。

そこで、自分が学んでいる中医学が非常に明快に答えを出してくれることがたくさんあり、また、対処法をも教えてくれるのです。

例えば先に述べた胃熱や心の熱など、これほど人に起こっている事象を、理論的に明確に説明できる医学は他にないと思います。

古くて新しい中医学と、古き良き時代の育児の再生である西原式育児と、共通する部分があるのは理にかなっているんですね。

ちなみに西原式育児で結果の出ない子どもたちに大きく共通するのが、薬害です。

それは子ども本人に投与された薬だけでなく、母体の、妊娠中や出産時、さらには子どもができるずっと前に服用していたホルモン剤など、多岐に渡ります。

それもきちんと中医では説明できますし、量子医学でも確認済みです。

まさに薬はリスク、安易に薬剤を使った出産や不妊治療などは、もちろん命を守るための苦渋の選択は除いて(それでも子どもへのリスクと現在地は認める覚悟で)、よくよく考えて選択するべきである、とあえて炎上覚悟で触れておきます。

 

折しも先日、西原先生の運営する「西原研究所」が、先生のご健康を理由に、閉鎖になってしまいました。

非常に残念です。

このタイミングで、長年温めていた、私と「むしろ台所診療所」の河口あすかが中心となって運営する、西原式育児を中心とした有料サイト・「アンテナ」をついに公開しました。(一般公開は11月から)、

研究所が閉鎖になってしまった今、この育児を伝承していける人材は、これだけの経験と知識を蓄えた私たちしかいない、と自負しています。

西原式育児をやってみよう、やっているのに結果が出ない、周りに同じ育児法の人がいなくて不安、など、育児で迷える子羊になってるお母さん方の、大きな味方になり得ます。

私たちは、西原式育児はもちろん、中医学の観点から、さらには量子医学の観点からも共に考え、最良の道を選択するお手伝いができると思ってます。

気になる方は是非、お問い合わせください。

 

今回、かなーり真面目な文になってしまいましたね〜

どうしよ、最後、おちゃらけたほうがよい?

そうね。

男子6人だけの長男クラスに、初の女子が転校してきたんですよ!

もうね、あれやらこれやら、少女マンガ的脳内展開で大変なんですよ、保護者が!w

 

私:「ねえねえ、今日、転校生来たんでしょ?初・女子!!」
長男:「うん、来たよ」
私:「どんな子だった?(ワクワク✨)」
長男:「下品な子だったよ」
私:「は?下品?」
長男:「うん、あのね、ソーセージはち○んこで、ミートボールは金玉だって言ってたよ」
私:「……まあ、男の子6人の中に入ってくる子だからね……」

 

色々崩れた。