進路~得意なことと好きなこと~

こんにちは。皆様お元気でお過ごしでしょうか?

秋の行楽シーズン到来ですが、子どもたちも色々な学校行事をやんごとなく開催して頂いていて、先生たちの並々ならぬ努力に本当に感謝する毎日です。

 

次男1年生は、地元のバス会社へ「バスの乗り方教室」へ行ってきました。

長男も1年生の頃に行ってるんですが、「にしちゅん」とかいうスズメを装ったゆるなキャラクターが描かれているレアバスが市内に2台しかないとか3台しかないとか、ボクは乗ったとか乗らないとか、バスにピンポンがいくつあるとかお土産にノートをもらったとか、兄弟で若干競争心ベースながらもこういう共通の話題を話せる年頃になったんだなあと感無量w大人はバスどんな柄かとかなんて正直どうでもいいのでww

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長男5年生は、清水へ移動教室へ。

子どもらが観光バスに乗り込んで「いってらっしゃ~い」と手を振ってふと、保護者より誰より先に、校長先生が泣いてるっていうww

大好きだよもううちののりまきせんべい校長先生!!

台風が近くにいながもお天気が良く、ずいぶん前からこのイベントを恐ろしく楽しみにしていた長男はハイパーご機嫌でテンション高くて大変なことに。

そりゃそうか、初めてのお友達とのお泊りだもんね。

今の教育は小学校でも「自分たちで創ること」に重きを置いて行事をするせいか、彼らの移動教室への作り込みがハンパなくて、行事後の先生自作のDVDを観てもできる限り子どもたち主体で動いているサマがよく見て取れました。

私が小学生だったカンブリア紀には、行事は先生の言うことを聞いて動けるかどうかのチェックみたいなもんだったから想像がつかない~つか担任の先生がビデオ撮って編集して配ってくれるとかなんていい時代なのか(゚д゚)!めっちゃうれしいぃ~

 

小学校は去年から、中学校は今年から、20年に一度の学習指導要領の改変が行われました。

今までの「受け身」な教育から、子ども主体への教育へ、ほとんどパラダイムシフトのような激変ぶり、だそうです。

学校がそこまで変われば、大学や受験制度や、学校の評価方法や試験まで、さらには私たちの教育への捉え方やどんな子どもをめざして教育するのかまで、すべての価値観がガラリと変わることになりますね。

平たく言えば、今までの偏差値一辺倒の価値の置き方が変わるので、改変にむけてあらかじめ準備してこなかった学校などには混乱が起こっているようです。

今までならA=Bだよ、と教えられそれを覚えてテストで書けばそれが点数になったんだけど、「なんでBなのかみんなで考えましょう」という授業になるわけですよ。

それどうやって点数つけんの?って話になります。

今までの方法で点を取ってきた子は当然混乱しますし、学校や塾はどのように子どもたちを指導すればいいのか、大変換を迫られることでしょう。

 

5年生ともなれば、「進路」という問題がでてきますが。

うちの子たちは小中一貫校に通っているので、そのまんま普通にしていればお隣の校舎へ移動するだけw

一貫校なだけに雰囲気も先生も良く知っているので、子どもも親もそこはあまり不安はありません。

周辺の学校では、もっと低学年から塾に行って中学受験に備える子もたくさんいます。

私たちの住む地域で一番「偏差値の高い公立中学」は中高一貫校なので、そこに行くためには中学受験が必然になり、狙っている子はみんな塾通いをしているそうです。

長男のクラスでも少ないですが何人かは受験を狙って、塾に行っている子もいます。

 

「ねえママ、ボクはどこの中学に行くの?」

「好きなところに行けばいいんじゃない?うちの中学じゃダメなん?」

「わかんない」

「なに、頭良いところへ行きたい?」

「行きたいといえば、行きたいよ」

「頭良いところって何するか知ってる?」

「知らない」←オイw

「ずーっと勉強するんだよ、自分が好きな勉強だったらいいんだけど、あんたが大っ嫌いな宿題とおんなじことをずっとやるの、ほんでそこに行くためには学校から帰ってきたらお友達とは全然遊べなくてお弁当持って夜9時くらいまで塾へ行って大っ嫌いな宿題と同じことを延々をするの、それでもその中学へ行けるとは限らないんだけど、行く?」

「……じゃあ、いいかな……」

 

とまあ、そんな程度でw

何が良いか悪いか、どの学校が良いか悪いか、なんてのは本当に狭い概念でしかなくて。

大人側が入れなければそもそも存在すらしない了見でしかない。

ちょっと前までお隣の校舎に行っておりがみクラブに入る気満々だった長男になぜ今こういう疑問が出てきたかというと、塾へ行き始める子がポツリと出てきて、そういう概念が彼らの教室まで届いてきたから、でしょうね。

生まれたときはみんなまっさらなんですから、最初から「あそこの中学が良い!」なんて思いながら産道から出てきてたりしないもんね。いたら怖いわそんなガチ赤んぼ(゚д゚)

 

私自身がガリガリの偏差値教育世代で、「どんな田舎でも誰でも知ってる有名大学へ行くことが人生の目標であり成功である」という教育の申し子みたいなもんでしたが、何か得られたかと言われたら、なにが本当にしたいことなのかすらわからず言われるがままレーンに乗りました、という感想でしかないので、自分で選んだという自覚はありません。

私ね、めっちゃ頭の悪い子どもでした。

20年学校というところへ通ってて、一度も授業というものを聴けた試しがない。

授業中何をしていたかと言うと、延々と落書きをしていた。いるでしょ、教科書の端っこでやたら精度の高いパラパラ漫画を制作しているやつ。アレw

全く授業を聞かず頭の悪い子どもだった中学のあるテスト前に、ふっと、オリジナルの勉強法を編み出し、ほとんど底辺からいきなり10指に入る順位まで爆上がりしてしまった。

親も先生も手のひら返し。

「……人生、チョロい」

と思ってしまったうら若きおしげさん、仕方なし。

そんで4大行ってなんとなく就いた仕事が美容師ですから、学校の勉強が人生で必要とかできるとどうだとか、全くハナから信用していないのでした。

 

これはもう、現代社会にいる以上仕方のないことだと思うのですが、学校であれ社会であれ、今は、「競争社会」、人より優れていることを良しとするので、人生の目標を見失うように仕組みがなっています。

私たち親世代は競争社会が骨の髄までしみわたっているので、子どもの将来や人生があれこれ心配で色んなサポートをしようとします。

子どもは親を喜ばせたい存在なので、一生けん命期待に応えようとします。

心配の末教育虐待にもなりかねず結果、親も子も行き着く目標を見失う。

 

よく、

「得意なこと好きなことは違う」

と言われます。

人より少し上手にできると、つい私たち親はほめてしまい、そこに才能があるんじゃないかと期待します。

本人も、人よりできるから、これで将来やっていけるんじゃないのか?って思います。

例えば絵が上手で、親や周りから褒められて、じゃあ自分は絵が得意だからと絵画専門の学校に行くことにする。

するとその学校には全国から集められた「人より絵の上手な人」だらけになるので、そこでは自分が「人より絵の上手な人」という大前提ではなくなってしまう。

それでも本当に絵を描くのが好きだったらいいのですが、動機が「人より絵が上手だから」だと、目的を見失い心が折れてしまいかねない。

「人より上手だから絵描きになろう」は動機の物差しが外にあるから、同等もしくは自分より得意な人が現れれば、永遠に競争をしていかなければならないので、その勉強や仕事は苦痛にしかならない。

対して、「好きなことをする」というのは、上手下手は一見関係ありそうに見えますが、実は関係ありません。

めっちゃ歌が好きで、でも音痴で、という歌手さんは実はけっこういらっしゃるんだそうです。

好きだから、歌を歌いたくて、自分を歌を録音して治して練習して歌手になりました、という人。

そういう人は動機が「好きだから」なので、自分より上手な人が出てきても関係ないし、落ち込むこともないですよね。

私も20年以上授業中落書きをしていたせいで、絵だけはそこそこ描けますwなんなら先日の自動車免許違反者講習2時間中も絶賛落書き三昧でしたww

 

「そんなねえ、理想論でしょ、好きなことが仕事になればそりゃ苦労はしないわよ」

ええまさに、その通りですが、そのバラ色の人生を歩む可能性さえ摘んでしまうのが、「人よりできることを良しとする」概念ですよね。

好きなことに好きなだけ取り組める環境を大人が全く提供していない現状で、好きなことを発見するきっかけを与えず、自分の心配や不安の払しょくのためだけに子どもを強制的に争いの道へいざなっていないかな、ということですよね、自戒も込めて。

もちろんものすごーーく勉強が好き、とか、どうしても●●になりたいからそのために、と言うんなら全力で応援しますけども。

長男が頭抱えている5ケタ÷4ケタのひっ算なんてこの量子コンピュータが稼働している現代に必要とはどうしても思えないのに、それが彼の人生を左右する「評価」になったりする。のであっさり「答え見れば?」と言ってしまう私ww

 

この3次元世界に「愛」はない、そうです。

「愛情」なら、あります。

愛情、とは、「愛している」という仮面を被った支配であり、コントロール

人間はみんな、愛情に苦しんできました。

愛情は憎しみに簡単に振れる。

みんな、愛情は大っ嫌いだけど、愛は欲しい。愛が欲しくて愛に飢えて、求め続ける人生を送る。

というのは、反抗期を迎えた子どもや自分自身の人生を振り返ってみても、心当たりのある人は多いんじゃないでしょうか。

でも愛情をかける側は「正しい」と信じて疑わないので、相手を蹂躙していることに気づかない、愛情とはとてもとても厄介なシロモノです。

見守ること、受け入れること、相手を変えない事、ありのままを認めること、これが支配のない愛であり、神の愛そのものだそうです。

我々親はつい、愛情をかけて自分自身の心配や不安を「子どものため」に変換しコントロールしてしまいがちですが、どれだけ子どもを見守り待てるか、という「愛」が、子どもを解放し、自信を持たせ、その子らしい人生を歩ませることになる、そうです。

 

愛情からの脱却、支配からの解放、が、すなわち「好きなことを発見させる」のであれば。

そういう概念からの解放、と捉えれば、今回の学習指導要領の改定は、非常にチャンスなんじゃないかなと、思います。

私たちひとりひとりが過去にも未来にも宇宙にも同じ人はひとりといない、唯一無二の全く違った個性を持つ存在であるならば、「好きなことの発見」はできないことでは決してありません。

これは信じる人も信じない人もいるだろう話ですが、「宇宙文明」での子どもの教育は、好きなことを徹底して探し、決めたらそれに関するデータを直接脳にダウンロードするんだそうです。

昨今の科学技術の発展を鑑みるに決して荒唐無稽な話でもないだろうし、もしそのような時代が到来したら、自分で選ぶ生き方をしてこなければそれこそ大混乱に陥る気がします。

 

そして、これからの時代に問われるものは「人間性」。

リア充自慢では決してないでしょう。

社会が成熟しきってむしろ行き着くところまで行き詰った感のあるコロナ後の世界が、今までと同じ価値観で動くはずがないように感じます。

人間性を養うのに一番大事な時期である小学生~中学生の時間をどう過ごさせるのか、我々親がどう見守り待てるのか、価値観のシフトチェンジができるのか、そこがカギのような気がしてます。

 

という壮大な言い訳のもと、塾通いなんて面倒なことは全力で忘れていただき、お隣の校舎で青春を満喫してください、と画策する今日この頃ですw

給食も美味しいしね、親友もいるしね、是非楽しい思い出を作って欲しいもんです。

なんかね、私、変な自信があるんですよね、苦労したり心配したりしなくてもこの子たちは絶対自分たちで自分の道を見つけて歩くだろうっていう。

芯が、彼ら自身に繋がる目が、曇っていないんじゃないかって。

身体がクリアな分、親の心配エリアが狭まるんですよね。

その辺も西原式育児をやってきた成果かなあ。

だからなるべくお口にチャックして、後方支援に徹しようとおもっちょります。

 

これ、最近大好きな動画です。

どこの学校のなにかも誰かも知らないんだけど、私一人で再生回数回してるw

この男子どもがめっちゃ青春堪能してて好き♡

うちの子たちももう数年もすればこういうおバカ男子に成長するんだろうな、と思うと、楽しみでしょうがないですww

 

ではまた~👋