反抗期の正体?
雪国にはあり得ない雪画像ですw
こんなに雪がなくてどうやってダルマ作ったのかと子どもの頃10年ほど雪国に住んでいた私は突っ込みたくなる。
あれですよ、雪国では雪は遊ぶものではなくて戦うものなので、雪で遊んだことなど数えるほどしかありません。
かまくら1回作ったかな?通る人に「なにやってるの?」と真顔で聞かれるw
なんならスキーだって関東に引っ越して大学生になるまで未経験だったもんね。
こんにちは~
お元気でお過ごしでしょうか。
世間が騒がしくはありますが、我が家の小5、小1も元気でございます。
学級閉鎖に備え、市からひとり1台支給されているタブレットを毎日持ち帰っておりますが、今のところ学校がお休みになることはないようです。
というか、この子たちは入学以来一度も学級閉鎖を体験していません。
人数が少なくてナチュラルソーシャルディスタンス状態ということもありますが、1クラス5人の規模でもし4人休んだら、残りの出席者がひとりになってしまうわけですよw
「その場合学級閉鎖はしますか?」の問いに、
「ひとりでも授業をやります!」という力強いお言葉を頂いた長男小1の思い出。
雪が降った日学校から電話があったので、これは明日はお休みという連絡かな?と出たら、
「明日は雪遊びをしますから、相応の装備をさせて登校お願いします」
うちの子が通う学校は本当に公立ですか?と小一時間…
そんな環境で育った長男も5年生になり、転校生が次々にやってきて、クラスが5人から10人に。
反抗期真っ只中の子も増えてきて、そろそろお年頃に突入です。
あの天真爛漫な長男様がどんなふうに変化していくのか、絶賛定点観測中。
それは、
「先生が嫌い」
から始まりました。
あれほど学校が大好きで、人生に「好き」しかなかった長男に、「嫌い」ができた!
私たち彼の親は、今までほとんど彼を「怒る」ということがなかったので、彼は怒られ慣れていません。
それは長男が怒らなきゃならないようなことをしない、というだけで、私たちがそういう方針でも人間ができているわけでも、もちろんないです。
怒られ慣れていないので、少し注意されても、自分でない他の子が怒られても、いちいち真に受けてえらいことへこんでしまうのです。
嫌いになった原因は別に、はたから見たらそこまで極端に理不尽なものでもなくて。
彼の作品に「ケチ」をつけられるとか、渾身の作の書初めにダメ出しをくらうとか、そんな程度。
先生が嫌で学校が嫌と泣いて嫌がるようになり、行きたくないとびっしょりと枕を濡らす。
「嫌なら行かなくていいよ」
と言っても、
「さぼるのはダメなんだよ!!」
と。
真面目かよ(゚д゚)
先生が嫌い、から、どんどん、あの子が嫌い、この子が嫌い、と嫌いがたくさん出てきて、ついに世の中の不平不満を言うようになってきました。
年頃といえば年頃、世間で言う反抗期といえばそうなんだろうけど、はて、何が原因でこんなに思考が固まってしまったのかな?
今まで比較的バランスよい物の見方をしていたのが、急に偏ったように感じるなあ?
と、なにかキッカケがあるように思ってて。
わかった、ディベートだ!
うちの学校では5年生になると、ディベートの授業があります。
最初なので、お題は本当に簡単に、
「あなたは犬派か?猫派か?」
とか
「住むなら都会か?田舎か?」
とか。
それぞれ論客に分かれ、ジャッジ役がついて、どっちの主張がよりわかりやすかったかを判定するもの。
本来ディベートというのは、物の見方を拡げる取り組みであり、二極に分かれた相手の意見を聞く練習をするもの。
こんないいところもあるね、こんな考え方もあるね、と多角的視点を持つことによりお互いに理解を深め合うことを目的とするものですが、「競技」としてジャッジメントがあるがゆえに、
「相手を言い負かす」
という間違った目的を持って勉強しがちです。←私自身が大学の時経験済みw
自分の意見が正しい、相手の意見は間違っている、主張が認められたら俺の勝ち、相手に勝った俺は正しい。
急に正義に偏った彼の目の前には、自分とは正反対の間違ったもの、正しくないものが映るようになり、今までそこまで気にならなかった先生の言動などが、強烈に許せなくなってきてしまった、というのがコトの真相なんではないかと。
人がバランスを欠く思考に陥ると、否定したものが目の前に現れる、無意識とはそういう仕組みになっているそうです。
アンパンマンが正義の味方になればなるほど、バイキンマンとドキンちゃんが悪さをしてあの村にはいつまでも平和が来ない、という、仕組み。
なるほど、これが反抗期ってやつ?
人を不幸にするのは物の見方だけ。
第二次性徴期という体が変化する時期でもあり、さらに思考に言語が追い付いてきた年頃で、今まで親や先生にジャッジされ否定されてきたと感じたことから復讐に転じて自分も他者にジャッジを始めるものが、反抗期の正体なんじゃないかと思いました。
長男の担任の先生がそんなに理不尽な先生かというと決してそうではなく、むしろ長男のことはとても気にかけてくださり自由にさせてくれている先生です。
長男が授業中、「眠い」と言ったら、「じゃあ4分だけ寝ていいよ」と言ってくださったそうで、寝ていいとか言ってくれる先生なんて生涯出会ったことありませんけど私っ!!
そんなわけで、長男に、
「ママから宿題!今日から1日3個先生の良いところを見つけておいで!」
ええ~絶対ムリ~~!!
ってブーブー言ってたくせに、1週間もすると、
「最近、先生、マシになった。」
でも、正義に偏っている原因は解決していないので、彼の攻撃はウマの合わない友達に矛先が変わるだけで、彼が振り回されている「大変さ」は変わらないわけです。
でもね。
幼い頃体に不快があまりなくほとんど「嫌」がなくやってきた長男には、実は人を浄化する力があると思っています。もしかして親バカだったらすみませんw
人は、自分に「嫌」があると、それを他人に映して攻撃をします。
これが「偏った見方」です。
相手の1%も見えていないのに、そこに自分の嫌なところを映して他人を嫌ったり評価したりマウントを取ったりするのが、人なのです。
つまり、「嫌」があると、相手に「愛」を見いだせなくなる。
本当は自分に愛が見いだせなくなっただけなのに、相手に愛がないと、自分の愛をわかって欲しいと、攻撃を始めるのです。
自分の愛をわかって欲しい、認めてほしい、そうやってお互いに向き合った結果、ケンカや戦争になります。
対して、自分がジャッジされる体験がなければ、自分をジャッジしないので、他人もジャッジしない。
ジャッジがなければ、相手のそのままを受け取ることができる。
「わかってほしい」を向けていた相手は、自分のそのままを受け取られたことにより、浄化され、自分や相手に愛を見つける関係に変わることができます。
おかげさまで幼少期の頃より「嫌」が少なかった長男はこうやって、周りを浄化してきたように、私には見えています。
前述した「ウマの合わない友達」も、最近急に丸くなって仲良くなったそうです。
今はね、彼にもこの世の生まれた課題を消化する必要があるでしょうから、ジャッジという体験も大事な体験なのでしょう。
だから親としては、信じて観ているしかないのかな、と思います。
過保護とは、親自身が自分を信じられないことにより、子どもも困難を乗り越えられないんじゃないかという不信からくるのだそうです。
まあねー、一生足元にじゅうたん敷いてバラの花びら撒いた上を歩くような生活するんだったら、どこへでもついていって口出して温室育ちにしてもいいんだろうけどね、それじゃ成長しないし逆に子どもに恨まれるだろうしね。
受け入れると幸せが始まり、拒否すると不幸が始まる。
という格言がございまして。
私の一生終わらない反抗期は、嫌な体験への拒否(逃げ)から来ていたんだな~と思う今日この頃。
良い体験もそうでないと思われる体験も、ノージャッジで受け入れることにより、自分の人生を歩むという幸せへの第一歩になる、と信じて、見守っていこうと思っております。
反抗期と思われる時期のリスクはだいぶ軽減できているように思うので、やはり身体の不快を最小限に育児できる環境は本当にありがたいな、と多感な年頃を前にしみじみ感じています。
西原先生との出会いに感謝です。
亀もびっくりのスローペースではありますが、体に不快のない育児がどのように影響していくのか、これからもちまちまと正直更新していこうと思います。
ではでは、また~!